「いま、伝えておくべきもの」~学習院桜友会80周年記念講演・学習院卒業生座談会より(長谷川氏(昭27)/大木氏(昭28))

*平成12年、学習院桜友会設立80周年を記念して行われた「卒業生座談会」の内容を「学習院桜友会サイト」より転載いたしました。

(http://203.211.161.54/oukai80/oukai80b_2.htm)

「いま、伝えておくべきもの」

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司会

皆様、たいへん長らくお待たせいたしました。きょうは、素晴らしい秋晴れ、青空 が広がりまして、皆様にはこの会場まで気持ちよく校内を散歩しながら、おいでいただい たのではないかと思いまず。本日は桜友会ならびに学校法人学習院共催による、「学習院の 継承すべき伝統と文化」についての卒業生座談会にお越しいただき、まことにありがとう ございます。
私は平成4年学習院大学文学部を卒業しまして、現在テレビ東京でアナウンサーをして おります佐々木明子と申します。私のまわりでも、そして各方面でも、若い人たちが学校 の名前を継いで活躍し始めています。ですが、諸先輩方の築いてこられました伝統、そし て文化をきちんと受け継ぎ、そして後輩たちに語り継ぐべく学んでいるかといいますと、 少し自信のないところです。そういった点からも、本日は私も非常に楽しみにしてまいり ました。
またきょうは、皆様からのご意見を頂戴する時間が、こちらではございませんの で、どうぞ配布いたしましたお手元の用紙に、ご感想、ご意見などを書いていただき、講 演終了後にご提出いただければと思います。
それでは早速、座談会のほうを始めさせていただきたいと思います。司会進行は磯村尚 徳様にお願いしたいと思います。それでは、よろしくお願いいたします。
磯村

ご紹介をいただきました磯村でございます。今秋晴れという話でしたが、これは英 語ではインディアン・サマーというんですね。こういう秋口に、時ならぬぽかぽか陽気で、 そして雲ひとつないような天気のことなんですが、当節はこのインディアン・サマーとい うのは禁句になっています。使ってはいけない言葉になっているんです。インディアンと か黒人とかというのは、今のアメリカでは使えません。ネイティブ・アメリカンズ・サマ ーといわなければいけないんです。そんな言葉狩りのようなおろかなことが、少なくとも 当学では行われていないと思いますし、きょうは率直なご意見を、今私の横におられる皆 様からお伺いしたいと思いますので、後輩の学生さんも、そして父母の方々も、リラック スして話を聞いていただければということを、冒頭にお願いしておきます。  私、ただ今、パリにできました日本文化会館の館長として、パリ住まいをしておりまして、1週間ほど前に帰ってまいりました。ちょうど帰る直前にパリ桜友会総会というのが あって、今パリには50人ほどの桜友会の会員がおりますが、そのうちの30人近くが拙宅に 集まって、記念撮影その他、たいへん楽しいひとときを過ごしました。学習院中等科の出 身である松浦晃一郎駐仏日本大使、ついこのあいだユネスコの事務局長になった松浦さん も、駆けつけていただきまして、これから帰って桜友会の座談会に出るんだという話をし ましたら、ユネスコで頑張るから、ぜひよろしくというお話でした。
この松浦さんは外務省の出身なんですが、中等科に在籍中、現在の総理大臣・小渕恵三 さんと机を並べていた仲なんです。私、実はおととい小渕さんにお目にかかったんですが、 総理もたいへん喜んでおられました。またこの桜友会の座談会に出るんだということを申 し上げましたら、小渕総理も、おれも一時だけどとにかく学習院にいたんだという話で、 そのときの中等科で非常によく勉強のできた松浦晃一郎さんは、東大を出て外交官になる にはということで、日比谷高校に入りました。そして政治家になるにはということで、小 渕さんは早稲田を選ばれたということなんですが、依然としておふた方とも、学習院中等 科、高等科の集まりには出る。何か学習院にはそうした魅力があるようです。
前回この卒業生の座談会をいたしまして、そのときには主として思い出をたどりながら、 学習院のよき伝統のようなことをお話しいただきました。特に前回の出席者はほとんどが 初等科から大学までの一貫教育を過ごしてこられた方でした。そしてその中心のテーマは、 学習院らしさというのは何なのかというような話でした。今回は幹事の強い要望もあって、 むしろ現状にしぼったお話にしてまいりたいと思います。もちろん思い出にふけることも 大切なんですが、同時に実社会でそれぞれ素晴らしい業績をあげられた方々ばかりですか ら、実社会の体験も踏まえつつ、現在の学習院に対するそうした先輩の意見、あるいは学 習院というのはひとつの日本の社会の縮図でしょうから、日本社会に対するものの見方と いったようなことを、率直にお伺いして、一種の教育論、あるいは日本論を展開したいと 考えております。
最初に皆様に1分ずつくらい、自分と学習院との関わり、それからきょう最もおっしゃ りたいことは何なのかということを、ひとことずつ発言していただきたいと思います。別 に歳の順とか何とかということではないんですが、偶然長谷川さんはこのなかでは最年長 でいらっしゃいますから、長谷川さんから、ひとことお願いいたします。

長谷川

hasegawa1それでは私から申し上げますが、1分間ということですから、ごく簡単に学習院 と私のふれあいの経緯について申し上げたいと思います。私は昭和24年、学習院大学が創 設された年に、第1期生として入りました。1学年と2学年が同時に開設されて、同時に 入学したと思いますが、私は2学年に編入ということで、昭和27年の3月に卒業しました。
したがって学習院に在籍したのは、わずか3年だけでございます。それまでは関西育ち で神戸一中から海軍兵学校へ行ったりして、軍人の経験を経てきましたから、もともと学 習院にはそれ以外特にご緑はないんです。しかし当時は今から振り返ると、ほかの皆さん も同じことを感じていらっしゃると思いますが、長年続いた学習院の伝統といいますか、 特殊な学校の雰囲気が敗戦によって戦後急に変わって、過渡期の、ある意味ではきわめて ユニークな時期に3年間在学しましたので、非常によい思い出がたくさん残っています。 そのへんについては、改めてあとでお話ししたいと思います。
磯村

ご自身はおっしゃいませんでしたが、特攻隊で出撃されて、敵艦を狙ったが撃墜さ れ、海上に漂うところを奇跡的に敵艦に救助されたという、そうした九死に一生を得た人 生の残りを、非常にいろんな面で活躍していらっしゃいまして、私も以前は、「レンゴー」と いう名前を伺うと労働組合の連合かなと思ったんですが、知る人ぞ知るで、段ボール製品 その他で世界的に聞こえた企業でありまして、もうひとつは非常にメセナというか営利を 目的としない文化活動への支援をなさっている会社として有名であります。ストラディバ リウスというイタリア製の素晴らしいバイオリンがありますが、そういうものを会社のお 金で買って芸術家に貸与する、そうした活動もしていらっしゃるというような方でござい ます。
それでは中條さん、お騒いいたします。
中條

私も長谷川君といっしょで1期生なんです。ちょっと変わっているのは、当時学習 院長だった安倍能成先生に惚れて、私も職業軍人でしたから、あの安倍先生が戦前はラジ カルと言われて戦後は右翼だと言われて、そうした毀誉褒貶に泰然として生きておられる 姿が、これぞ人生のお師匠さんだと思い、私は門をたたいたんです。そうしたらいよいよ 学習院が宮内省を離れて私学になる。全部私の好みの教授を集めてくるというんです。で、 来たまえと言われた。学習院大学の初代学長となった安倍先生から来なさいと言われた。 学習院と私はそういうご緑なんです。

そして入学して、ちょうど入った頃、明治維新といっしょで旧華族の皆さんも落ちぶれ て、要するに世変わりですから、昭和25年だったでしょうか、バザーまでやって、お金が ありませんから屏風やいろんな骨董品を寄付してもらって立ち上がってきた、そんなこと も経験してきた世代です。結論としては、きょうも来ていますが、娘、そして孫も学習院 にごやっかいになったのが、今回のテーマ「学習院の継承すべき伝統と文化」の私なりの 実践的答えです。
皆さんのように長く学習院にはおりませんでしたが、いろいろそういうことをした。そ れから学習院創立85周年の募金の際にも、安倍先生を手伝って各会社を回ったとか、そう いう体験を踏まえて、きょうは皆さんといっしょに、学習院を語りたいと思います。
磯村

ありがとうございました。アサヒビールはご承知のようにキリンの後塵を長いあい だ拝しておりましたが、この中條さんあるいは樋口廣太郎さんといったような方がアサヒ ビールを今日あるような業界のトップに育てたわけです。また、ご著書も「小は大に勝つ」 とか、そうしたなかなか勇ましい方でいらっしゃいます。あとで、大いに論じていただき ます。続いて大木さん、お願いいたします。
大木

ooki2大木でございます。私は昭和22年に神奈川の藤沢にある湘南中学、旧制中学を一番 最後に卒業して、学習院の高等科文科乙類に入りました。23年に入ってから28年に卒業す るまで、陸上競技部を中心に学生生活を送らせていただきました。このなかで一番私自身 が感じたことは、私どものほうはやはりべーべー言葉、俺とよう、とか、おめえとよう、 とかいうような、そういう言葉のなかで勤労動員と工場動員で中学生活をやっていた関係 で、学習院に入ってからまず文化の差、特に言葉、これがまったく合わなくて、これを合 わせるのに非常に苦労しましたが、半年くらいで何とか普通の仲間と同じような言葉で話 ができるという感じになったことが、きのうのように思い出されます。
私の場合学習院では、ほとんど昭和寮を中心に生きてまいりましたので、そんなことか ら今はなくなってしまいました学習院の寮生活、特にこれがひとりっ子だとかそういうこ とになると、非常に人間形成の場で重要な位置付けがあったという、そのへんを掘り下げ ながら、お話しできればと思っています。
磯村

isomura5ありがとうございました。大木君と申し上げたほうがいいんですが、私は同級で、 彼は旧制の高等科のときはドイツ語を第1外国語とする文乙というところで、たいへん昔から勇ましい男でしたが、東急電鉄に入って同じ学習院育ちの五島昇さんという方の秘書 を務めて、あの難しい五島さんにすっかり気に入られて、その後東急系のいろいろな会社、 伊豆急の社長その他を歴任した、文武両道の達人であります。それでは最後になりました が、このなかでは比較的、相対的に一番若い安田さん、お願いいたします。
安田

hanada4安田でございます。今相対的とおっしゃいましたが、だいぶ若いんでありまして、 そちらのお四方と比べますと、恐らく3、4年若いのではないかと思います。ということ は学習院では、ご承知のように1年でも違いますと先輩に対して最敬礼をしなければいけ ませんので、先ほど最敬礼をもうすでにしてまいりまして、きょうは生意気なことを言っ てもお叱りのないようにと申し上げてまいりました。
私は昭和14年に初等科に入りまして、17年間学習院にお世話になりました。17年という とちょっと数が合わないとお気づきの方もあると思うんですが、その1年は疎開中に栄養 失調になってダブッた1年であります。それで合計17年間学習院にごやっかいになりまし た。私から申し上げるのは何ですが、父もごやっかいになりまして、約8年ですか、親子 でごやっかいになって、学習院というのはたいへんいい学校だったという、のちほどお話 し申し上げますが、そういう思い出を持っております。
私は昭和31年から約3年間ボストンのほうの大学にまいりました。それから昭和56年に もう一度カリフォルニアのほうの大学にまいりました。そこでいろいろ向こうのほうの勉 強の実状を見てまいりまして、それから今のところずっと外国の会社に勤めておりますの で、そういう角度から学習院、あるいは日本の教育というものを眺めてみて、何らかのお 役に立てればと思っております。もちろんこの分野は磯村先輩がたいへんご経験があるわ けで、ちょっと言うのもおこがましいんですが、そのへんしか貢献ができないと思います ので、ひとつご辛抱のほどをお願いしたいと思います。
磯村

ありがとうございました。最後になりましたが、私はご列席の方々とは違って学習 院では劣等生でして、だいたいあまり授業に顔を出したことがないんです。昭和11年に一 応初等科に入りまして、その後外国に行ったり中抜きの時期があって、旧制高等科に大木 君といっしょに入りまして、そのなかで文科丙類というフランス語を第1外国語とするク ラスにおりました。
この文丙と俗称していたクラスは、いわばフランス的な、ものを斜めに見ると申しますか、先生も日本きってのフランス演劇の大家でモリエール全集を翻訳した鈴木力衛さんと いうような先生なんですが、もうお亡くなりになって時効でしょうから申し上げていいと 思うんですが、昼間から微醺を帯びておられるんです。我々生徒も影響を受けて、微醺を 帯びたわけではないんですが、とにかくガリ勉をするというのが最も軽蔑されまして、私 などは英語の授業はついに自慢じゃないんですが、一度も出たことがない。しかしフラン ス語だけは週に7時間もたたき込まれまして、しかしありがたいことで、そのおかげで今 日まで、もう大方私の同僚は定年退職しているなかで、まだフランス語によって飯を食っ て、フランスで生活をしているということで、学習院に非常に感謝をしております。
以上、ざっと自己紹介を兼ねて一巡いたしましたので、早速本題に入っていきたいと思 います。今度は順序を逆にいたしまして、安田さんのほうから。これはご本人が言いにく いでしょうから私の口から申し上げると、安田さんといろんな外国人を交えての席にごい っしょしたことがありますが、非常にきれいな英語で、そしてこういうお人柄ですから、 たいへん外国の人にも尊敬される。亡くなられたお父様もすばらしい方でしたが、ご承知 のように安田家はかつての安田財閥の総帥の、それこそ財界の名門でございますから、そ のいい意味のそうした教養が外国の人にも非常にアプリシエートされるんだと思います。 そうした観点から、まず安田さんから、一番後輩諸君におっしゃりたいこと、お願いいた します。
安田

申し上げたいことはいっぱいあるんですが、私の家族は約50年前にダグラス・マッ カーサーにクビになりましたので、先ほどおっしゃられた財閥うんぬんというのは、今は 関係ございませんで、ジャーディン・マセソンというグループに今勤めております。私は きょう申し上げたいことは多々あるんですが、のちほど細かくアメリカの大学における教 え方とか、ものの考え方というのをお話ししていきたいと思いますが、私は先ほど申し上 げましたように学習院の恐らく一番いいときに学習院にいたと思うんです。
これはどうしてそういうふうに思うかというと、たいへん自由でのびのびとした闊達な 雰囲気があった。これは差し支えがあるかもしれませんが、当時は宮内省の管轄下であっ たということから、かなり自由な教育ができたからなのではないか。また一方で、集団生 活ということになると、たいへん規律、しつけが厳しかった。それはもう本当に厳しく教 えられまして、修身とか教育勅語のような、みんなに共通するモラルというか倫理観があったんで、これで親も先生も、この共通な倫理の基準に立って子どもを協力して育ててい たということがあると思います。それから先生方にユニークな方もたくさんおられました が、たいへん温かい方が多かった。今思い出すと、本当に懐かしい先生方の顔が浮かびま す。そういう先生方は非常に厳しいんですが、厳しい先生のほうが私はよく覚えておりま す。そういうバランスのとれた、自由でのびのびしていて、なおかついわゆる集団生活で は規律も非常に厳しい、そしてユニークでなおかつ個性の強い、しかし温かい先生方がた くさんおられた。このバランスのとれた教育を、当時の学習院はしていたのではないかと 思います。
それが最近どうも、やはり社会構造が変わってきた、社会環境が変わってきた。当時は 共通意識が非常に強く、教育のしやすい環境にあったのではないかと思うんですが、現在 はどうも教育のしにくい環境になってきたのではないかと、私は感じております。これは 世界的な傾向にあると思います。
アメリカも、この点ではたいへん苦しんでいて、ご承知のようにいろんな凶恵な犯罪が 起きたり、いろいろな問題が起きております。またクラスにおける暴力問題、その他いろ んな問題があって、ちょっと例を申し上げると、今度の大統領選についてのウォールスト リート・ジャーナルとNBCテレビの共同調査によると、共和党の支持者の最大の関心は 道徳的価値、それから民主党の支持者の最大の関心事は教育ということで、そういう統計 が出ております。アメリカでも、こうした問題にいかに苦しんでいるかということがわか ります。
古いものはだめだと、すべてだめだというのではなく、昔の学習院にあったよいものを、 さらにもう一度掘り返して、現代に適したものに洗いなおして使っていくということも、 考えていいのではないかというふうに私は感じております。またさらに具体的にアメリカ の大学との比較は、のちほどご説明したいと思います。
磯村

安田さん、今はインディアン・サマーということが言えなくなったと申しましたが、 なんか今のアメリカの教育界というかアメリカの学園とはいうのは、その意味では日本のモ デルではありませんね。
安田

ぜんぜん違うと思います。
磯村

これはフランスあたりを見ていますと、このあいだもアメリカに進出しているフランスのある企業の社長が訴訟を起こされまして、だいぶ新開ダネになったんですが、なぜ 訴訟が起きたかというと、自分のアメリカ人の秘書に「あなたは、きょうはきれいだね」 と言ったんです。これがセクハラだという訴えです。フランス人の場合には、毎日秘書に 対して「あなたはきれいだね」と言わないと、これがセクハラになるわけです。それくら い大人気ない、あまりにもぎすぎすしたアメリカ的な訴訟社会には、フランスもいささか うんざりしているという実例です。あとでまたゆっくりそうした点を伺いたいと思います。
では大木さん、お願いします。
大木

はい、私たちのころは、ちょうど中学の3年のときに戦争が終わりまして、4年、 5年、高等科は23年からなんですが、中学の生活を振り返ってみますと、ほとんど勉強し たことがないんです。勤労動員で農業を春秋やっていましたから、今でも農業はだいたい 全般にわたって、今のような化学薬品を使わない、肥やしと堆肥の農業はだいたい全部で きます。そういう時代を過ごしてきました。
したがってそういうところ、あるいは工場動員、工場で機械をまわして、私は工具部と いうところに配属されて、ミーリングやフライス盤、あるいはドリルのねじの切り方やな んかを中学生のときに教えられて、そのへんも多少昔のことを思い出せばできると思いま すが、そのなかでやはりあったのは序列です。何をどういうふうに準備して、何をいつど うやってやるのかという順序、これを崩すと農業も工場のほうも、ぜんぜんできません。 この順序をとばしてやるとか楽をするとか人から聞くというのはだめなんで、やっぱり自 分の体に覚えさせなければいけない。
そういう中学の教科書以前の実社会に関することを、いろんなことを覚えなければいけ ない中学のときに、たたき込まれた。今考えるとこれは自分自身にとって、非常にプラス になっております。
学習院に入る時も、家から通えるところで旧制度の高等学校に入りたい、一番最初に試 験のあるところはどこだろうと探したら、3月1日にあった学習院高等科の試験でした。 3日に発表になって入ってしまったものですから、ほかは行かないで、入学してからも弊 衣破帽が好きだということで、バンカラ騒ぎをしていたわけですが、それで寮生活をさせ ていただいて、これまた寮に食べるものが何もありませんから、自分で部屋のなかで自炊 をしたりして過ごしたわけですが、このときも農業生活が非常に役立って、それで乗りきれたということもあります。
それ以上にこれからお話しいただけると思いますが、長谷川先輩も同じ昭和寮でいっし ょでしたので、年齢が4つ、5つ違いはざらでございます。軍人学校からお帰りになった 方、浪人はほとんどいませんでしたので、各種の軍の関係からお帰りの人が大勢いました。 たまたま私が浪人も何もしないでずっときたものですから何かやれということで、寮の仕 事をさせられましたが、そのなかでいろいろわかったことは、結局自分の生活だけではな くて、生活が非常に幅広くなって、交友関係もどんどん広くなりましたし、ものの考え方 も自分と違うということで逆らってもだめなんで、それとどう合わせていくか、調和の問 題、そういうことを、特に私はひとりっ子でしたから、いろんな意味で教わることができ た。
これはもし私の人生のなかで寮生活がなかったら、今の私はないと思います。非常に自 己中心というか手前勝手というか、そういうことで鼻持ちならない人間になっていたので はないかと、自分自身で今でも思います。
磯村

ありがとうございました。あなたがそんなに農業万般にわたる知識があるとは知ら なかったけれど、ゴルフのクラブでときどき土を掘るほうはなかなかじょうずだという、 そのことは知ってましたが、本当に耕すのが好きだとは知らなかったですね。じゃあ、次 に中條さん、お願いいたします。
中條

nakajou3学習院の何がすぐれているか、そして何を受け継ぐべきか、伝えるべきか、そうい う課題がありますが、今日本の国というのは、皆さん毎日ご覧になっていて、なるほど経 済的には世界一になった。ODAだって世界一、そして国連への会費の納入も2番目だけ れどアメリカは滞納しているから1番目、そんな経済的には素敵な日本になったけど、何 か失ったものがあるのではないか。こうしたことは、今恐らく老いも若きもみんな感じて いらっしゃるのではないかと思うんです。
私は、学習院そのものも社会に超然としていられるわけではないから、先生も生徒も相 似形のなかにあると思うんです。さてそのときに見ますと、私も特殊な環境を経てきた体 験から、今答えを先に言うと、日本が日本であるということ、皇室を中心としてのこの姿 というのは、私が士官学校のとき、今も思い出しますが、昭和19年の4月29日に代々木で 観兵式があって、天皇様が、すぐ横に我々士官学校の生徒を並べるわけです。そしてお前たちを一番の頼りにしているんだと、実際にお思いになっていたかどうかわかりませんが、 そう教えられました。そして戦が終わってみて、私も一時疑いました。疑ったけど、今考 えてみると、日本を救うものは、こうした皇室を中心とする、今までの生きざまではない かと。
そうして考えてみると、今磯村さんも大木さんも安田さんもいみじくもおっしゃってい るように、みんなたいした勉強をしていない。私の同級の連中も当時はマージャンばかり。 これでだいじょうぶなのかと、私はストレートで真面目すぎるほうでしたから、これが学 習院か、たいしたことがないと。ところが長いあいだ学習院を見ていますと、何かみんな 光源氏みたいな感じだけど、されどああいうたおやかさだけではなくて、したたかさがあ って、遊んでいるようだけど何かを芯に持っている。世の中よく言うじゃないですか、右 に行きすぎたら左へ、左へ行きすぎたらまたセンターへと、この弁証法的にものごとが進 むという教えに照らしてみると、学習院というのはしっかりしていないように見えるけれ どしっかりしていて、勉強していないように見えるけれど、何かきちんとしたものを持っ ていて、大きく崩れずにきているんです。
これはどうしてこういうことになってきたのかと考えると、私は一番大きいのは皇室の 方々がごいっしょに学んでいたという長い伝統がそうさせたのではないかと。天皇様をは じめとした皇室の方々を拝見していますと、まさにその生きざまですね。恐らくものすご く感動はなさると思うんですが、喜怒哀楽はあまりお出しになりませんね。久邇君なんか もいっしょだったんですが、ゴルフをすると10メートルくらいの長いパットが入ったとし たら、誰でも喜ぶじゃないですか。彼は、あ、入りましたねと。なんか張り合いがないみ たいですが、こういう冷静さと言っていいんでしょうか、要するに常に落ちついていて、 そしてセンターへ戻るエネルギーというのを、学習院は持っているんじゃないか。そうし た姿勢が日本のこれから進む姿じゃないのかと。そう私は思ったからこそ娘も孫も学習院 に入れたんです。
今まで特にこの50年そうでしょ。偏差値、偏差値と、結果の平等だけが民主主義のゴー ルデンカードのように錯覚して進んできた、この日本の筋道をなおすのは学習院じゃない かとすら、私は思っているんです。国の一番のリーダーであり、象徴である天皇様が学ば れるわけだから、周辺の生徒たちも教える方々も、国の役割に参加するという意識を持って、この学校は進んできたのではないかと、現在の学習院はその成果じゃないのかと、私 は誇るべき成果じゃないかと、しみじみ思います。
ひとり占めしてはいけませんから、またいつでもしゃべります。
磯村

ありがとうございます。今中條さん、非常に重要なことをおっしゃったと思うんで す。皇室と学習院ということでいえば、前回の会のときに、ポール・クローデルというフ ランスの詩人でありかつ駐日大使を務めた人の言葉を引用して結びの言葉としましたが、 要するに皇室が体現している長い日本の伝統というものを、とかく私どもは忘れがちであ ります。私も長いあいだNHKにいて、外国の事情を日本に紹介するという仕事ばかりし ていました。ところが逆に今度のように、日本の文化会館の責任者として、日本のことを フランス人に、あるいはヨーロッパの人に伝えるということになると、自分がいかに日本 の伝統というものを知らなかったかということを思い知らされている毎日なんですが、そ んなことも含めて、あとで中條さんの提起された問題を、またもう少し掘り下げてみたい と思います。
ひとわたり最初のオープニングステートメントということで、長谷川さん、よろしくお 願いいたします。
長谷川

私は、終戦直後の学習院に3年間おりました。そのころの雰囲気は今中條君が言 いましたように、戦前からの長いあいだの学習院の伝統のなかで、変化が始まったころの 雰囲気ですが、そうした時代を背景にしてちょっと肩のこらない話を申し上げたいと思い ます。
私は昭和19年に海軍兵学校を出まして、航空隊に入り、戦線に参加しました。先ほど磯 村さんからご紹介がありましたが、いわゆる特攻隊として実戦に参加し、死んでしまった 部下に対してはきわめて残念なことですが、私は幸運にも生き残りました。その最後の出 撃のとき、日本の国の山並みがだんだん後ろへ消えていくときのことを感慨深く覚えてい ます。それは「祖国よ、いつまでも」ということでした。
そしてその4年後、学習院に入ったときに思ったのは「国破れて山河在り」という言葉 でした。世の中たいへん変わったなと、そしてひとつの象徴的な学習院に入ったと。この 3年間はきちっと過ごそうと思った、そんな50年前のことを覚えています。当時の学習院 を振り返ってみると、皆さんがおっしゃいましたように、ひとことでいうと自由闊達な空気が確かにありました。
仲間のあいだではたいへんざっくばらんで、マージャンをやったり新宿へ行って安いお 酒を飲んでみたり、ラグビーをする連中はケガしたといって授業をさぼってみたり、そう いう感じでした。ところが、集団的にみんなが集まってきて何かをきちっとやろうと思う と、礼儀作法が生き返ってくるという雰囲気で、これは昔からの学習院の伝統であったと 思いますが、それが残っておりました。
それから記憶に残っているのが、運動部が部費を集めるためにやっていたダンスパーテ ィー。常磐会もよくやっておられたですね。そのほか古い学習院出の方々が、よくいろん なことをやっていました。私も学習院新開の主幹を入学2年目から1年半くらい務めたこ とがあって、そのときにあちこち取材に出かけた記憶があります。そういう独特なある種 の解放感、片方では先がよく見えない若干の不安感、そういうものが微妙に交錯していた ような気がします。
ここで皆さんに、申し上げておきたいと思うことは、学習院は皇室がおつくりになった 伝統的な学校の流れから、昭和20年の終戦を経て、昭和21年にいわゆる私立学校に変わっ ていくわけですが、翌昭和22年3月29日に学習院の高等科以下の卒業式で昭和天皇から次 のようなお言葉を賜っております。
これは私も感動したお言葉ですので、メモを読みながらご紹介申し上げます。
「本日ここに母校の卒業式に臨み、感慨深きを覚える。今や学習院は時勢の推移に対して 新発足の途についたのである。学校の前途には、幾多の難関も予想せられるのであるが、 関係諸子の努力によってこれを克服し、光輝ある新歴史を創造することを期待するととも に、過去百年にわたって涵養せられてきた学習院のよき伝統は、ますますこれを発揚し、 もって祖国の再建に寄与せられることを望んでやまない」
ちょうど敗戦直後の瓦礫と混乱のなかで、そして日本という国家がどうなるのかがまっ たく見えてこないあのときの、陛下のお言葉であります。私は昭和天皇とともに昭和を生 きてきた男ですが、本当に胸にじんとくるものがあります。このお言葉に今の学習院が引 き継いでいかなければいけない、伝統と歴史というものがあるような気がいたすわけであ ります。以上です。
磯村

ありがとうございました。これでひとわたり皆様が一番おっしゃりたいことを言っていただいたわけですが、今お聞きのように、やはり皇室あるいはまた長い伝統を守るこ との大切さを、皆様が触れておられます。まずこの点をもう少し発展させて、安田さんい かがですか、特に中條、長谷川両先輩がだいたい同じようなことをおっしゃったんですが、 それについての感想から、ひとわたり伺っていきます。
安田

皇室につきましては、私もまったく両先輩の言われたことに同意をいたします。私 は17年間学習院にいて1年落っこちたという話をしたんですが、落っこちて今の陛下の、 当時皇太子殿下でいらっしゃいましたが、組にごいっしょになりまして、中等科の1年か らずっと高等科までごいっしょであったわけです。私みたいな落っこちてきた者はいつも Cクラスで殿下はAクラスですから、直接は客席にいる草刈廣君のようにご学友というこ とではなかったんですが、たいへん親しくしていただきました。
今おっしゃいましたようなことのひとつの例ですが、ある日のこと、常盤松に当時の皇 太子殿下がいらしたときに、毎週いろいろな方のご進講がありまして、今週は野村あらえ びす、いわゆる野村胡堂が音楽のご進講をするから、学友何人かいっしょに来いというこ とで代わりばんこに行くわけですが、私はそのころラグビー部に入っていて、ラグビーの 練習がしたくてたまらない。常盤松の御殿に伺ってじっとしてご講義を開くというのは、 どうも苦痛だったわけです。
当時高等科だったと思いますが、ラグビー部員のひとりが、おい安田、きょうは練習に 出るかと言いましたので、いやそれがきょうまた常盤松に行かなければいけないんだ、ま いったよ、とか言ってひょっと後ろを見ましたら、皇太子殿下がそこにいらしたんです。 私はこれはえらいことになったと思って、直立不動の姿勢をとったんですが、とても間に 合わない。それで恐る恐る常盤松の御殿に伺ったところ、たくさんほかにも友だちがいた んですが、特別に安田は隣に座れとおっしゃいまして、特別に親切にしてくださいました。 私が気をつかわないように一生懸命やっていただいた。その温かさは私はいまだに忘れま せん。
それからもうひとつ、だいぶ前の話ですが、エリザベス女王が東京にお見えになったと きに、英国大使館でたいへん大きなパーティーがありまして、そこへ私も招かれて庭を歩 いていたとき、当時の皇太子殿下とばったりお会いして、皇太子殿下が女王にお会いした かとおっしゃるので、いやまだでございますと申し上げたら、紹介してやろうと連れていってくださいました。エリザベス女王の前に行きましたら、皇太子殿下がお見えになった ものですから女王陛下がお立ちになってしまったんです。皇太子殿下がこれはこういう自 分のクラスメートで安田という男だとご紹介いただいて、私も緊張しているもんですから 何を言っていいかわからないで黙っていましたら、そばから駐日英国大使夫人がこの男は ギターを弾く、自分が歌を歌ってこの男がギターを弾くんだと言いましたら、何で日本の いわゆる伝統的な楽器を弾かないのかというご質問がありまして、それは三味線といって 若者が弾くものですと申し上げてから、しまったと思ったんですが、もう間に合いません でした。しかし皇太子殿下はそういう非常に温かい方でいらっしゃいまして、私はそうい う思い出はいまだに忘れないでおります。こういうほかの外国の元首にはないような、い つも変わらない日本人の象徴、日本人の道徳、倫理の象徴でいらっしゃるという、非常に ステイブルな、いつもそういう皇室というものがあるんだということが、いかに我々日本 の国民にとってありがたいことかということを、もう一度私どもは噛みしめるべきではな いかというふうに思っております。
磯村

ありがとうございます。今のお話の脈絡のなかで言いますと、私はこのあいだドイ ツで、ドイツにおける日本年というのがスタートして、ベルリンに行ってまいりました。 今の駐独日本大使も学習院出身の久米君という男で、秋篠宮様がおいでになって、それよ り2年前のパリの日本文化会館の開館式典のときには紀宮様においでいただいているんで す。まさに今安田さんが言ったことと、まったく同じ感想を持ちました。やはりそうした 皇室に対する見方なども、学習院の場合には皇室の方が何人か机を並べるというような環 境にもありますから、逆に遠くに行かないと、そのありがたさが、なかなか身にしみてわ からないという感じを、私もまったくいたしましたので、あえて追随、フォローいたしま す。
中條さん、何かご発言、どうぞ。
中條

安田さんでも磯村さんでも、今何とはなしにお話ししている、そのことが皇室にも のすごく力強い応援になっていると思うんです。最近、アメリカに行っている孫の質問に 答える形で「おじいちゃん戦争のことを教えて」という本を出したんですが、全国から手紙 が毎日のように届くんです。若者たちのなかのひとりで神戸大学の3年生がこう言ってい るんです。「僕の世代は何となく皇室や自衛隊を嫌い、何となく南京大虐殺を信じ、何となく戦前の日本はだめだと思っている人がほとんどです。しかし何となく、は確固たる知識、 論理、証拠はないのです」と。ちょっとあいだは略しますが、「何となく大好きな国、卑屈 でなくて傲慢でなくて、他国があやかりたいような国日本、21世紀は本当に素晴らしい国 にしてみせます」という手紙が来たんです。
学習院というレーゾンデートルは、天皇様をはじめとする皇室の方々がおいでになると いうことだろうと思います。そして結論は、天皇様をはじめとする皇室の方々の深層心理 をお察しすることからスタートすべきじゃないかと思うんです。具体的にいっても昭和20 年のときというのは、昭和天皇様も相当のお覚悟をなさったればこそ、己をお捨てになっ たればこそ、こういう道がひらけてきたんだと、しみじみ思います。
正史、要するに正しい歴史をたどっても皇室は1300年は続いている。こんな国は世界中 ないじゃないですか。そして日本文化だとか日本の伝統というのは、ほとんどこの随神の 道で、皇室が毎日やってらっしゃることや祭事は随神の道そのものです。そして世界史を 見れば王室は減ってきています。皇室の方々もそのことを賢察されています。だからその さびしいお心を一番そばにいる学習院が、みんなそのお気持ちになって、そして日本の行 くべき方向を、そして陛下をはじめとしてやっておられるところの、一番の理解者たるべ きだと。具体的に言えば、この歴史というものを学習院だけはきちんと、どこの学校と比 較してみてもきちんとやっているなと思われるようにならないといけない。そして礼儀作 法についても、本当の日本を見よと、そんな学校であってこそ、たくさんある学校のなか で、そして生徒が少なくなってくる将来を考えてみたら、一番学習院のあるべき姿ではな いのかなと思います。
磯村

ありがとうございます。長谷川さん、何かご感想ございますか。
長谷川

私からひとこと申し上げますが、「学習院の継承すべき伝統と文化」という話にな りますと、当然のことですが学習院の背景にある日本という国家、日本人という民族の流 れに触れざるを得ないわけです。今3人の方がお触れになりましたが、私も日本という国 の伝統と文化をたどっていくと、必ず皇室そのもの、朝廷そのものに話が入っていかざる を得ませんし、その流れがある意味で日本の伝統と文化を支えていると思います。また学 習院もまったく同様で、中條君が申されたことに全く同感です。それについて日本の教育 というのを考えてみますと、日本は明治維新のときにあれだけ大きい変化のなかで、維新を仕上げ、欧米に比して負けないような近代国家への道を進みました。これは一成功し て、それが明治、大正の伝統と文化をつくったと言えます。そのなかで特に私がよかった と思うのは、教育面について知育教育、徳育教育、体育教育と3つに普通分類されますが、 特に徳育について非常に注意を払って明治、大正、昭和の初期まできました。これが日本 人の民族的な誇りというか国家観というものを醸成してきたのではないかと思うのですが、 それが戦後、そういうことのなかに行きすぎもあって、ああいう戦争をもたらしたのかな という反省もあるのです。しかしこれもちょっと行きすぎて、今は教育の荒廃的側面が出 てきてしまっているので、それについて本当に考えなければいけない時期だと思われます。 そういう時期の日本に学習院が現在あって、そのなかで学習院が長年培ってきた伝統と文 化を継承して、21世紀に向けてどういうことをなしていくべきかということに話が及ぶわ けです。
磯村

よろしければ、その教育の問題を中心にしてあとで討議したいと思っておりますの で、伝統の保持ということについてどうお考えか、ひとこと言っていただけますか、恐れ 入りますが。
長谷川

今申しましたように、日本の全体の雰囲気とも非常に関係があるんですが、やは り学習院の伝統は皇室の存在、皇室の流れと深く関わりがあると思います。私はこれまで 200回くらい外国へ行っているんですが、いろんな外国の方と話していて感ずることが多い のですが、話が日本の天皇制、皇室の話になると、大半の方は「日本という国は古い伝統 のある、尊放すべき国なんですね」という気持が、表情や言葉に出ることが多いんです。 そういう意味でも私は、伝統と文化の継承は大事であると思います。
磯村

長谷川さん、具体的な話を伺いますが、関西日墺(日本とオーストリア)協会の会 長もしていらっしゃいますね。それでハプスブルグ家の、ご高齢ですが、まだご健在のオ ットー大公ともお親しい。そういうヨーロッパの旧家の人が、たとえば天皇家に対してど んな思いをいだいているかというような具体的な話を伺えますか。
長谷川

そうですね。第1次世界大戦の直後、1918年だったと思いますが、ハプスブルグ 帝国の流れの最後になったオーストリー・ハンガリー帝国が滅び、皇帝カールー世が退位 されました。そのときの皇太子が今のオットー・フォン・ハプスブルグ大公です。その方 が先月ご夫妻で日本にお見えになり、天皇皇后両陛下にもお会いになりました。私は前から親しいものですから、2、3日伊勢、京都をご案内しました。そういう方にお会いして 感じるのは、昔の貴族の流れというか伝統というものを十分身につけておられるというこ とです。また、それでいて、そういう家柄だということを、私どもがおつきあいしていて も感じさせない雰囲気があります。
このあいだも、「天皇皇后両陛下がヨーロッパの古い歴史のことについてもよく知ってお られ、いろいろご質問を受けて感激しました」と、大公がおっしゃっていましたが、そう いう意味でヨーロッパの貴族の流れというのは、日本の天皇制について非常に尊敢もして おられるし、独特の雰囲気、責任感、礼儀正しさというものが、確かに保持されているような気がいたします。(*2011/7/4日、オットー・フォン・ハプスブルグ大公逝去)
磯村

ありがとうございます。天皇皇后両陛下がフランスを公式に訪問されてから、もう すでに4年がたつんですが、その訪仏のときに南フランスのトゥールーズという町におい でになって、その横にトゥールーズ・ロートレックという有名な画家を生んだアルビとい う町があって、そこに美術館があって、このあいだ私もまいりましたが、4年後の今日も 皇后陛下がフランス語で非常に機微にわたるご質問を美術館長にされたということが、い まだに語り草になっています。あまた皇室の方、王室の方がお見えになるけれど、こんな に素晴らしい教養をお持ちの方が、はるか日本からおいでになったということで、4年後 に訪れた私ども夫婦まで、たいへん鼻が高かったんですが、それに類する話は実はいっぱ いあるわけです。こうしたことは、日本のマスコミより、かえって外国のメディアのほう が、きちんと押さえているのが実状です。
中條

だから今あなたの言葉にあったように、皇室や、天皇のすぐれた事跡、東郷元帥だ とか学習院長を務めた乃木大将について、そういうことをいっさい国民に教えてはならな いということが残念なんです。だからそうした呪縛を解くには、私はさっきから申し上げ ているように、学習院の先生はじめ生徒たちが一番お近くにいることを考えるべきです。 今の話題にしても、畏れ多い話ですが、昭和天皇様でも何か女性的でいらして、決断力が ないように思われますが、実は一番決断力のある方だったように私は思うんです。
たとえば昭和11年2月26日の二・二六事件のときも、軍の我々の先輩たちは、やや政治 が乱れているんだから、これくらいのことは若者の正義としてありうべきというくらいの 感触だったんです。調べてみると、陛下は、これは反乱だと決断なさった行為とか、それから終戦のときにちょうど私は参画していたんですが、昭和20年の8月9日にあの地下壕 の御前会議をなさったときのことは、当時の迫水書記官長から我々民族の遺言として聞か されましたが、あれは天皇様のご決断がなかったら、我々暴れ陸軍は、あんなに清々粛々 とおさまったはずはありません。
ですからこういうことを数々考えてみても、陛下を一見学習院らしいと言っては叱られ ますが、学習院の皆さんは自信を持っていただきたい。さして勉強していないように見え るけれど、しかししっかりしている。光源氏のようだけど、それだけじゃない、しっかり 芯がある。磯村さんだってみんな、具体的な例がここに並んでいるじゃないですか。だか らたいしたものだと思うんです。こういうことを誇りにすればいいと思うんです。実に柔 軟じゃないですか。
磯村

そのとおりですね。私は今むしろ会場の皆様に伺いたいんですが、皆さんは「万葉 集」というのは、ほとんど全部お読みになりましたか? あるいは「万葉集」は無理とし ても、「奥の細道」、全部ご存じですか? 現在フランスの大学生は、相当勉強しています し、シラク大統領は「万葉集」をフランス語訳になったもので全部読んでます。日本の政 治家は、日仏首脳会議に臨んでも、日本文化の質問に答えられない、そういう教養がない。 フランスのほうが、日本文化のことをよく知っています。
たとえば日本では、弥生時代に文化が大陸から到来して発達したみたいに思われていま すが、その前の縄文時代の研究、最近は考古学が非常に発達して、1万2000年前からこの 日本列島の特に北端の部分に素晴らしい文化があったということがわかってきた。このあ いだ2カ月にわたってパリの文化会館で縄文展というのをいたしまして、そのときにもシ ラクさんやほかの方がお見えになって、やはりそういうことはフランスの少なくとも知識 人は、日本はけっして中国文化の亜流、エビゴーネンではなく、独自のものが1万年来あ るんだということを、きちんとわきまえているんです。
その縄文があって、しかもそれを体現しているものに皇室の長い伝統というものがあっ て、しかもその皇室というものが単なる権力の収奪、力が強かったから成立したという類 のものではないということは、イロハのイとしてフランスの知識人は知っているわけです。 皆さんが「万葉集」を全部読んだかどうか。フランスの大統領に負けないくらい、日本の ことは勉強したほうがいいと思うんです。説教はこのくらいにして、大木さん何か、伝統の尊重というものについて、あなたなりのエピソードはないですか。
大木

私たちは旧制度から新制度に切り替わった世代で、旧制の高等学校から新制の大学 に切り替わって1年に入ったんですが、やはり旧制度が、非常に私はよかったと思ってい るんです。皆さんもご存じだと思うんですが、ロバート・エル・シンツィンガーというド イツ語の先生がいらっしゃいました。そのころは中学を卒業して何もまだ勉強してない学 生ですが、中学を卒業してすぐ英文独訳なんていうのを1年からやらされて、わけもわか らないままに、しかも教科書は全部ひげ文字、黒板に書いてくれる文字も全部ひげの筆記 体です。今でもそれだけはたたき込まれて覚えていますが、そんな時代に日本は戦争には 負けた。だけど文明、文化で負けたわけではないのに、なんで学制改革をするんだといっ て、先生は教壇でほとんど目を真っ赤にしながら、私たちに教えてくれたことがございま す。
そのころはもう進駐軍のみが大手をふっていた時期ですが、そういう教育を受けました。 そのころ、今の天皇陛下が高等科に入られて清明寮にお入りになってから、学習院の正門 にはアメリカの第7軍のMPがヘルメットをかぶった軍装で立っていました。そんな時期 でも、堂々と国旗を揚げて国家斉唱を安倍能成院長の下でやったことを、きのうのように 思い出します。もう50年前です。
そういうことで学校そのものは文化は自分たちのほうが上なんだということを、皆さん 自信を持っておられたし、先生方も右と言われる先生もあれば左と言う先生もいらっしゃ いましたが、そういう右とか左とかいうんでなしに、やっぱり先生の人徳、おもしろさ、 この先生ならというところには、みな学生が飛び込んでいけるだけの余裕と先生の幅があ りました。今どうかと言われても、やはり時代も変わればいろんなことが変わります。と にかく偏差値なんていうものが歩いているようでは、サラリーマンはできますが、リーダ ーに向く人間は育たないというふうに実感しております。
したがって学習院は、日本の全国にわたってのさまざまな集団、あるいはグループのな かのリーダーになれるような、そういう資質の学生を送り出すということが、やはりひと つの目的であり、これが伝統だというふうに、私は考えております。
磯村

ありがとうございます。もうそろそろ教育論のほうに入ってしまいましたが、こ の伝統の尊重ということで、一応ここで締めくくらせていただきますと、今ドイツもこうしたナショナル・アイデンティティーというかカルチュラル・アイデンティティーの問題に 非常に悩んでいるんです。今発言した大木さんは、学習院の高等科でドイツ文学をシンツ ィンガー先生をはじめとした先生方に、たたき込まれているわけですが、日本の我々の世 代でドイツといえば、シラーだゲーテだということになりますが、今のドイツの青年たち はシラーもゲーテも知らないそうです。ドイツの青年にドイツ人のアイデンティティーと して何を誇りに思うかと質問すると、メルセデスベンツというような答えが返ってくるん です。
このあいだ、ノーベル文学賞をとったギュンター・グラスというかなり左翼の文学者で すが、彼が有名な言葉をはいております。「自分がドイツというものを意識するのは、天気 予報のときだけだ」と言うんです。そういう一流のインテリでも、自分たちの文化的なル ーツを持ちにくくなっているなということです。占領軍が日本とドイツにどういう教育方 針を持ったかというと、ふたたび軍事国家に日本がならないように、できるだけ伝統的な ものを抹殺しようという教育を、左翼といっしょになって進めたというのが、残念ながら 今日までの実状なんです。
これまでの講師の話をお開きになって、特に若い人たちは、ずいぶんリアクショナリー、 反動的な復古調なことを言っているなとお考えかもしれないけど、カルチュラル・アイデ ンティティーを持たなければいけないという議論が、実は今ヨーロッパで最も新しい先端 的な議論なんです。ですからこのことは、けっして復古調のリアクショナリーな議論では なくて、ネーションステイト(民族国家)とかカルチュラル・アイデンティティーという ような問題は、ドイツ、イタリア、そして同じ敗戦国である日本にとって大事な問題なん で、この点で諸先輩の話を伺えたということで、ここをひとまず締めまして、教育論に移 りたいと思います。
長谷川さん、すっかりお待たせしておりますので、まず教育論で、先ほどちょっとおっ しゃいましたが、どうぞ続きをお願いいたします。
長谷川

その前に先ほどの話の続きで、ちょっと補足して触れておきたいと思います。磯 村さんがドイツの話をされましたが、実は半年前の4月ですが、ドイツの元大統領のワイ ツゼッカーさんが日本に来られたときに、私は大阪でのパネルディスカッションのあとの 夕食会で同じ席になったんです。そのときにワイツゼッカーさんが今の磯村さんの話と同じような話をされました。みんなの前で、スピーチの最初にこういうことをおっしゃった んです。「皆さん、ドイツは、日本とともに戦って日本とともに敗れました。しかし今日世 界において日本とともに、ドイツは勝ちました」とはっきり言われました。経済的な面で 日本とともに勝つことができたと言っておられるのでしょうが、そういうことを大統領が 公式の席でもきちっとスピーチされるということについては、学ぶべきことが多々あると 思います。我々日本人もあまり控えめになりすぎないで、言うべきことはある程度堂々と 言うことが必要だと思います。そして過去についての真摯な反省は忘れてはいけませんし、 それと同時に誇りも忘れてはいけない。両方だろうと思います。
それはそれとして、学制、教育制度について、先ほどの話に引き続いて申し上げたいと 思います。最後にちょっと触れましたように知的教育と道徳教育は併存しなければいけな い。もちろん体育もそうです。それが昭和の初期まではよかったんですが、戦後、個の重 視を背景に、民主主義が行きすぎて、平等を強調するあまり、ついつい結果の平等を求め るようになってしまった。それにともなって、教育の道徳的な側面、その他が損なわれて きたような感じがするのです。
特にここで忘れてはいけないことがあります。権利を主張する者は義務を果たさなけれ ばならない、自由には責任が伴うという当たり前のことが、現在の日本の教育では、何と なく後退してしまっているんじゃないかという気がすることです。このへんは、ぜひ今後 変えなければいけないと思います。
もうひとつここで申し上げておきたいと思います。私は「毅然として礼儀正しく」とい う言葉が好きです。これは国の教育を考えた場合に、基本的には伝統と歴史を重んじ、国 家観を身につけるということですから、そういう意味で私はこの言葉の持つ意味は重要な ことだと思います。毅然として歩むためには誇りを持たなければいけないし、誇りを持つ ということは、相手を見くだすことではありません。そして常に礼儀を忘れてはいけない。 礼儀正しく。これは学習院の立派な伝統のひとつですが、常に礼儀正しくということは卑 屈になることではない。国際的に見て日本人の礼儀正しさが、卑屈にとられてしまう場合 があるようです。
我々のあとを引き継ぐ若い人たちに、お願いしたいことは、ぜひ歴史を勉強してほしい ということです。予断や偏見のない目で、人類の歩んできた姿を見つめてほしいのです。

文化、宗教、戦争などの歴史や、民族や国家の興亡の流れ、こういうものをしっかり勉強 してほしいと思います。日本史、中国史、ヨーロツパ史、この3つが主体になりますが、 それをぜひやっていただきたい。
これを追っていくと、自ずから日本人としての真撃な反省と毅然とした誇りというもの が、必ず戻ってくるのではないか。そうすると先ほど磯村さんがおっしゃったように、ヨ ーロッパもそういうアイデンティティーの流れのようですが、私にはそれがよくわかりま す。日本人ももうこのへんでそろそろ、日本人としてのアイデンティティーを取り戻すべ きではないか。そして、そのためにも必要な教育に目を向けるべきではないかということ です。
磯村

ありがとうございます。教育論については、中條さんも一家言も二家言もおありだ と思うんですが、今長谷川さんが非常に重要なことをおっしゃいました。知育教育、知の 教育だけではなくて、徳育的なことも必要だというようなこととか、それから悪平等とい うことで申しますと、あとでお話し申し上げようと思うんですが、ルノーというフランス の国策会社が日産という日本の誇る会社を買収しました。私はこれは非常にいい組み合わ せだと思うんです。というのはフランスというのは、できる人間は思いきって伸ばすエリ ート教育です。そういうのがルノーの幹部にいるわけです。
日本はよく働く労働者、そして中間管理職のしっかりしたのがいる。この組み合わせは 実は意外に素晴らしい組み合わせじゃないかと思うんですが、これは私ばかりしゃべって いるといけませんので、要するにかつての学習院には、ずいぶん上から落っこちてきて、 僕らのクラスに来たのがいて、僕らの下からまた落っこっていったのもいますし、できな い生徒は、それでも必ずしも勉強ができないというよりは、何か運動ばかりやっていてど っペったとか、落第した、それからできる生徒は飛び級という制度も一時あったように思 うんです。フランスでも徹底していて、アメリカもそうですが、できる子はどんどん進級 させてしまう。大学入学14歳という子が出るわけです。
日本の戦後教育というのは、悪平等で、できない子のためにできる子が足踏みさせられ ているという状況があって、非常に歯がゆい思いがあるんですが、こんなあたりどうです か。
安田

おっしゃるとおりだと思います。私の聞いた恐ろしい話をひとつご紹介申し上げますと、小学校で運動会があって1周まわる、テープを切る5メートルくらい前にチョーク で線が引いてあって、よーいどんでいくと当然速い子が先に着くわけです。そのチョーク の線で速い子の順に待って、全部でお手々つないでテープを切るという、こういう恐ろし い話を聞いたことがあります。これは機会を平等に与えることではいいんですが、結果も 平等であるというような、まことに不思議な世界になってきている。こういう教育が今、 これは極端な例かもしれませんが、多かれ少なかれ行われていると、さっき磯村先輩が言 われたように、トップの連中が伸びなくなってしまうということになると思うんです。
日本は、明泊維新と戦後の2回にわたって外国の知識とか技術を身につけて、難局を打 開していったという、このふたつのたいへん難しい時期があって、恐らく今度は第3回目 の国難というか困難な時期になってきていると思いますが、ここで技術の点でまたアメリ カや欧州に習うことは、ちっとも恥ずかしいことではないと思うんです。何となく日本は 今まで経済大国になったもんで、一時期バブルのころは、もうアメリカに習うことは何も ないと言った経済界の人がいましたが、とんでもない話でありまして、やはり謙虚に技術 について、あるいは教え方についてはアメリカの一流の大学とかそういうところから、い ろいろ教わっていくことはたいへんいいことなんじゃないかと。ただし日本の精神を忘れ てはいかんとか、日本のよい伝統は忘れてはいけないとか、これは先ほど来お話がずっと あったとおりであります。
私はその教え方の問題なんですが、今一番大きなことは、やはり規律とかしつけとか、 さっきお話が出てきたマナーとかエチケットの問題だと、実は思っております。それで最 近パンダビルト大学という大学の教授の話を聞いたんですが、この人によれば、今アメリ カでもやはり公立の学校へはできるだけやらないで、私立の学校へやる。しかも私立の学 校でも聖職者がいて、規律としつけが厳しい学校に子どもたちをできるだけやりたいとい うふうに変わってきているというんです。これはさっき申し上げましたように、アメリカ でもそういう問題が多発しているということもあると思いますが、もうひとつおもしろい のは、その規律としつけがしっかりしている学校ほど学力がつくという結果が出ているわ けです。
ですから今日本の現状を見てみますと、学級崩壊だとか登校拒否というんですか、信じ られない問題がいっぱい出ておりますが、これは先ほど申し上げた昔の学習院にあったうな規律、しつけ、マナーというものの徹底した復習をやって、もう一回どうしたらこう いうものを子どもたちに植え付けることができるのか、これは差し障りがあるかもしれま せんが、先生方も含めて真剣に研究をしていただかないと、日本は非常におかしなことに なっていくのではなかろうかと、私は思っております。
磯村

今先生方のお話が出ましたが、安田さんが学習院におられて、教師は聖職、聖なる 職ですね、そういう使命感を持った素晴らしい先生方があなたのまわりにもいっぱいおら れたと思うんですが、思い出に残るような、さっき大木さんはシンツィンガー先生の話を されましたが、ありますか。
安田

たとえば初等科の話からまいりますと、山梨勝之進先生、海軍大将でいらっしゃい ましたが、この方が院長先生でいらっしゃいまして、当時初等科の学生の数が恐らく300人 以上いたと思うんですが、全部名前を覚えておられたですね。朝私が行きますと、挙手の 礼をされて、「安田君、おはよう」と言われるんです。なんで私の名前を知っておられるの か、何か悪いことをしたかなと思うくらい、とにかくよく知っておられる。学生はそうい うふうにされますと、非常に愛情を感じますね。
それからもうひとつの例ですが、たとえば清水文雄先生という方がいらっしゃいまして、 ご承知の方もいらっしゃるかと思いますが、あだ名がゴリポンというんです。非常にこう いうことを言ったら不謹慎かもしれませんが、ちょっとゴリラのような顔をしておられる んで、そういうあだ名がついたんですが、純粋な方でありまして、国文学者だったと思い ますが、非常に皇室を尊敬しておられまして、日本の国体のことを非常に心配しておられ ました。終戦後に1年間小金井に来られて教えておられましたが、その後全生徒を集めて、 私はまことに残念ながら君たちをこれから教えていく自信を失った、自分の考え方と世の 中が変わってきたので、自分は広島に帰って百姓をやると言ってお帰りになってしまった んです。このことは本当に誠心誠意、本当に心の底から教育に打ち込んでおられたという ことの証左ではないかと思うんです。そういう個性のある、なおかつ生徒を真剣に教えて おられた先生方というのは、たくさんおられて、今その先生方を思い出しますと、懐かし い思い出がたくさんあります。厳しければ厳しいほど懐かしいというようなところがあり ます。
磯村

中條さんは、陸軍士官学校にもおられて、その際のご経験もおありになるし、人生のなかで、そういう先生に巡り会えたというようなご経験をお持ちですか。そのことと、 中條さんはいろんなご本をお書きになっていらっしゃいますが、教育論、ビジネスマンが 成功するための教育論のようなものを、ちょっとお願いいたします。
中條

皆さんのご意見、まったくみんな賛成です。豊かになったら、必ず学校も国家も個 人も緩んできちゃうんです。ご質問にお答えしますと、私の人生はお師匠さんに恵まれま した。士官学校の教育というのは、上官の命令は天皇陛下の命令と思えという仕組みでし ますから、よく薬が効いたんです。そして次に旧制高校に行ったら、ドイツ語の引き受け 手がない。私はマッカーサーに1年追放されたんですね。今の皆さんは想像できませんね。 こんな傷ものを受けたら何をしでかすかわからないし、自分の身まであやうくなる。占領 下というのはそういうものですから。
それで東大教授になった丸山武夫先生という方が引き受けてくださった。で、1学期に ドイツ語で日記を出せというんです。私は「人に見せるものは日記にあらず」とだけ書い て、これをドイツ語で書いておけばよかったんですが日本語で書いて。そしたら赤いペン で、「今外は雨がしとしとと降っている、この自然のように素直であってほしい」と。それ で合格だったんです。後悔していますね。
それで学習院ですが、冒頭申し上げたように安倍能成先生には、ことのほか目をかけて いただいて、そして会社に入りました。なぜビール会社かというと、当時共産革命が起き てもおかしくない状況だったんです。皇居前に、赤旗がひるがえって、「天皇たらふく飯を 食い、我ら人民腹ぺこぺこ」と言ってはばからない日々があったわけですが、しかし考え てみればなるほど共産圏でも飲み食いだけはしてるなという単純な考えで、ビール会社を 選んだんです。そのビール会社も山本為三郎という人に惚れて入ったんです。惚れて入る ということは、学校でもどこでも、私はいいことだと思います。なぜかというと吸収力が いいんです。好きだから求める心につながるんです。
あとは教育の問題は、まったく皆さんがおっしゃってるとおりです。これからの国の立 て直しといったら、社会の混乱も教育界の崩れも、学習院も含めて、私はしつけ、教育し かないと思います。そのときに何が大切かといったら、大人たちの自信の喪失が原因と気 づくべきだと思う。それは昭和20年に、私は一番大きな理由があると思います。歴史のな かで戦争というものがいかなるものなのか。ひとつだけ言えば、話し合いがつかなかったら国際法でも戦をすることを許しているわけですから、そして力の強いほうの言うことを 聞けというのが世界のルールになっているんですから、だから勝者イコール正義であって、 敗者イコール不正義なんていう方程式がまったくないことを、日本の国民は全員この原理 を知って自信を回復する必要があります。
負けたほうにだって正義があろうし、また詫びることは率直に詫びていい。しかしそう したことは、正しく歴史をわきまえないとわからないじゃないですか。だから先ほど見て きたような伝統ある学習院の場合、歴史については、世間がびっくりするくらい真剣に挑 戦する学校であってほしい。そして神話。あれは占領で否定されたんです。このあいだ皇 后様がオトタチバナヒメのことをおっしゃっていましたが、ああいうことは素敵じゃない ですか、愛する者のために身を捧げる、公のために身を捧げる行為がいかに尊いかという ことは、神話のなかからだってみんな伝わってくるんじゃないでしょうか。
そういうことが、あまりにも今の日本、手抜きになっているんじゃないでしょうか。で すから、学習院でいち早くそういうことに気がついてやっていったらいいんじゃないです か。それは学習院らしいじゃないですか。あの人はいけないなんて言わないで、みんな天 皇様に学べばいいんじゃないの。それはヨーロッパのいいことはもちろん吸収していい。 さりながら日本のいいことというのはコアとして自分の身につけておきなさいということ で、元田永孚(侍講)につくらせたのが「幼学鋼要」というんでしょ。それがルーツで教 育勅語になってきたわけですから。そうしたことをこの際もう一度学習院はやり直したら どうでしょう。
磯村

ありがとうございます。大木さん、何か思い出に残る先生はシンツィンガー先生の ほかにもいらっしゃいますか。
大木

いや、私たちは特別この先生というのは。
磯村

もし伺えれば、東急の総帥であった五島昇さんから何を学んだかということも、偉 大なる経済人ですから、ありませんか。
大木

亡くなられた会長も、おれは東大のゴルフ部出身だというふうにおっしゃっておら れたし、学習院のときは相当きつい野球部の鬼キャプテンであったように思います。とい うのはまわりの方々から、よくあんなやつのところで務まるねなんていうことを、先輩各 位から言われた記憶がありますので、そういうことだったんだと思いますが、非常に言葉の少ない方でして、ゴルフでもそうで、見てろ、それだけです。自分で何でもさっさとや ってみて、本にはいろいろ書いてあるけど、これは違う、おれはこう思うから見てろ、そ れだけです。ですから自身のスタイルというか、それをはっきり持った方でいらっしゃい ました。
したがってくだらないことはぐずぐず言わないで、おい、あれするぞ、それだけのこと ですが、やはり以心伝心と申しますか、朝、顔を見て、顔さえ見ていればスケジュールを 組んでいても別に異常ありませんでしたが、たとえば海外に1週間、2週間行ってこられ ると、そのあとでのスケジュールがどうしても組めないんです。毎日顔を見ていると、な んかわかるんですが、しばらく離れてしまうとわからない。やはり身近にそういう体温を 感じるということが、これは生き物として非常に大切なことではないかということを、今 つくづく思っております。
磯村

ありがとうございました。長谷川さん、何か思い出に残るような方はいらっしゃい ますか。
長谷川

そうですね、学習院の3年間は安倍院長先生に親しく声をかけていただきました。 安倍院長先生はわりに闊達にお話しされる方で、やはりあの時代に安倍先生が院長として おられたことは、学習院の今日あるのに非常にプラスであったような気がします。
それからついでに、これはエピソード的な話ですが、私はいろんな過去の経緯もありま すので、最近アメリカの古い元提督で米国海軍記念財団とか海軍協会の会長さんとか副会 長さん方と親しくなりまして、あちらに行けばいつもいっしょにご夫婦と一杯飲んで食事 をして、賑やかにやります。4、5年前にワシントンDCでの夕食会のときでした。親し い奥方が、もうかなりのお歳ですが、私にこう言われました。「長谷川さん、先ほどからい ろいろ話題に出ていますが、海上自衛隊というのはマリタイム・セルフディフェンス・フ ォースと言いますね。どうもわかりにくい。もうぼつぼつネイビーに名前を戻したらどう でしょう」という。
私が黙ってましたら、その奥方がさらに「ハンブルグに行ってもロンドンに行っても世 界はどこに行ってもネイビーですよ。もう戻したらどうですか」と。またしばらく黙って いましたら、次にこう言われました。私もあとで返事に窮したんですが、「長谷川さん、い いですか、こういうとき日本人は必ず、「これは50年前にマッカーサーが置いていった」、そういう表現までは使わないまでも、それらしき表現で「憲法の第何条かに微妙に関係し ているので、名前自身もそう簡単には直せません」、という話をします。しかしいいです か、長谷川さん、昔から人類は数限りなく戦争をしてきました。戦争が終わると勝った国 は必ず負けた国を数年間占領します。占領しているあいだは必ず、ああしなさい、こうし なさいと、うるさく言うものです。しかし講和条約を結んで引き返したら、あとはその国 の方がご自身でもとに戻すものです。マッカーサーのせいにするのは、いい加減にしなさ い、彼はもうとっくに死にました」と。
そう言われてみれば、確かにそうだなという気がしましたが、このへんに今の日本人の 国際感覚とかアイデンティティーというものについて考えなければならないものがあるん じゃないかと感じました。
磯村

ありがとうございます。私の思い出の先生というのは、先ほど申し上げた鈴木力衛 先生で、この力衛先生にはいろいろ公私ともに教えていただきました。特に私が感心した のは、物事をぜったいそのまま額面どおりに受け取らない。必ず物事には裏があるという ようなことを、さりげなくおっしゃる。ずばぬけて頭のいい方でしたし、猛烈な勉強家な んですが、ぜったいにそれは人には見せない、勉強しているところを人に見せるようじゃ だめだということで、さっきも申し上げたように朝から微醺を常びておられることもある し、それから非常に照れ屋さんで、そういった点がありました。学習院仏文というのは、 各大学に比べても非常にレベルが高いと思いますが、そうした伝統が脈打っているように 思うんです。
今長谷川さんがおっしゃったことの関連で、外国での見方と教育制度ということで、私 はふたつの点をお話ししたいと思います。あと、その点についてのイギリスやアメリカの 経験を踏まえての安田さんのご意見を伺いたいんですが。ふたつ例を出します。ひとつは ルノーの日産買収ということです。これはいろいろ経済的な側面その他、皆さんよくご存 じなんですが、このルノーから乗り込んできたカルロス・ゴーンというのは、真っ先に私 のところに電話をかけてきて、今度日本に行くので日本のことについて勉強したいと。と にかくこの人は、フランス人ならその学校を出ただけで一生名刺に刷り込む、ポリテクニ ーク(理工科学校)というのがありますが、そこをいい成績で出て、もうひとつグランゼ コールといっている非常な名門校がありますが、これはエコール・デ・ミーヌ、日本語に訳すと土木学校といって、なんか泥臭い感じなんですが、実は大秀才の行く学校も出てい る。きわめて頭がいい。ですから30何歳でいきなり部長、局長になるわけです。
こういうエリートを養成する機構を、フランスという国家はナポレオン以来維持・育成 しているわけです。そしてそのエリートと大衆との差が非常にある。ところでそれを埋め るのが、先ほど来日本の偏差値教育ということが言われていますが、日本の教育の特徴と 言えます。人に言われたことをマニュアルどおりに実行するという意味において、日本の 労働者は非常にすぐれているわけです。日本人に欠けているのは、戦略的な思考ですね。 こういうところに、すこぶるつきのフランスの秀才が来てあれこれするというのは、なか なかいい取り合わせなんですが、この一点は教育とも絡むわけです。日本では出る杭は打 たれるといって、ゴーンのように45歳で何百億、何千億円を左右できるような地位に立て る人は、残念ながらほとんどおりません。残念ながらなのか、幸運にもか、ちょっとそこ は問題かもしれませんが。
しかしそういうエリート教育が、フランスという国を、やせてもかれても世界第4位の 経済大国に依然としてとどめている、ひとつの根幹をなしているわけです。このあたりに ついて、あとで諸先輩方の感想を伺いたいと思いますが、世界で一番強い軍隊という、有 名なジョークがあります。ドイツ人の兵隊さん、日本人の下士官、フランス人の若い将校、 エリートですね、そしてプロイセンのドイツ人の参謀本部、そして政治家はアメリカかイ ギリス、こういう組み合わせだったら、いかなる戦争にも勝てるんだという言い伝えがあ りますが、いつまでも下士官を量産するようでは、日本はやはりいつまでも誰かの下に立 たなくてはいけない。つまり日本の今の教育では、下士官はつくれるけれど、ゴーンのよ うなオフィサーはつくっていけないだろうということがひとつです。
もうひとつは、今4週続けてフランスの小説のベストセラーのトップになっている小説 があります。これは日本を題材にしています。書いた人はアメリー・ノトンブという、お 父さんがベルギーの駐日大使をしていた男爵家に生まれたお嬢さんです。この人が書いて いるのは、ミヤモトという、実は住友商事のことだと思いますが、彼女が実際に働いた日 本の商社の仕組みを書いているんです。日本について、私が今申し上げたことと同じこと を言っています。日本では中間管理職から上の指導者が、かつて自分の父から聞いていた ような品格のある人が少なくなっていると。これも恐らく教育に問題があるのではないかと思います。
もうひとつ大きな批判は、お歳を召した方にはリーダーシップのある人がいるけれど、 中間にいるのは、ただ上の顔色をうかがい、部下にごまをするだけという人種ばかり、そ れを小説家の巧みなタッチで描いて、なんと4週続けてベストセラーのトップだけではな くて、アカデミー・フランセーズという非常に権威のあるフランス学士院が、今年の小説 のナンバーワンにこのあいだ決めまして、今パリの社交界では、この話でもちきりであり ます。ということは日本の教育制度が、今フランスにおいて笑いものとは言いませんが、 困ったことだなというタネになっているということを申し上げて、エリート教育といえば、 フランスとはちょっと違うイギリス型教育とアメリカ型教育ということから、安田さんの 意見を伺いたいと思います。
安田

今磯村先輩が言われましたことは、たいへん興味のあるトピックだと思います。先 ほど来お話があります、学習院の伝統その他は、大切なことであるには間違いありません。 トップになる人は先ほどもお話に出たように品性、人格、人柄というものも確かに大切な んですが、現在世の中非常に国際化、グローバル化していると言ったほうがいいんでしょ うか、そういう場合にそれだけではトップはなかなか務まらない。むしろそれに加えて知 識、能力が加わらないと難しい。
たとえばの問題ですが、国際会議なんかに出ますと、日本の代表はとにかくずっと黙っ て座っているというケースが非常に多いんです。これはひとつは英語の問題も当然あると 思います。ご承知のように終始一貫して、日本の英語教育は弱体であったのではなかろう かと、私は思います。最近のTOEFLの結果も日本は、確か非常に下位に甘んじている という・・・。
磯村

確か187カ国のなかで185番目くらいですね。
安田

それはなぜそうかというと、本当に国際会議に出たりして、英語を母国語としてい る人たちとしゃべる場合は、英語で考えなければいけない。すべて日本語に訳して、それ からまた英語に直してしゃべるというのでは追いつかないわけです。そういう訓練を日本 では、まず最初にやっていない。これをやるのであれば、しゃべる、読む、聞くというの を、たとえば1日に2、3時間缶詰めになって、日本語のしゃべれない外国の教師といっ しょにやるくらいに徹底しないと、そういうところまでは、私はいかないのではないかと思います。  世界第2位の大国である日本の代表が、国際会議に出て最初から最後まで黙っていたと いうことになると、どうしても日本人は特殊視されてしまうんです。おかしな人たちだと。 そうすると、後ろに背負っている日本もおかしくなるという状況が、今あります。その場 合、もうひとつカルチャーとしてあるのは、会議に出たときにあまりしゃべると損だとい うような、むしろ人にしゃべらせて、こっちが聞いているほうが得であるというような、 日本の風変わりなカルチャーもあるんじゃないかと思うんですが、向こうの人たちは会議 に出たときは、しゃべって貢献をしないと、この人は何のために会議に出てきたんだとい うことになりますので、先ほど申し上げたように特殊視されてしまうわけです。
それからそれに付随して、さっき磯村先輩が言われました、トップエリートというか、 アメリカでいうと、たとえば東海岸にあるアイビーリーグとかあるいは西海岸にある有名 大学でどういう教え方をするかということですが、日本の大学はどちらかというと講義、 レクチャーが主体になっていると思うんです。今ゼミナールなんていうのがあるそうです が、これは非常に部分としては少なくて、たいていレクチャー、講義でやっていると思う んです。
私は昭和31年から33年までと昭和56年に向こうに行きましたが、そのころからすでにケ ースメソッドというやり方がありました。どういうことをやるかというと、たとえば老舗 のデパートが非常に保守的な経営をしていた、そこへ新興ディスカウントストアが近くへ 進出してきた、そのときにディスカウントで値段を安くしたために、このデパートのお客 さんが1割5分から2割くらいとられてしまった、そのときにどうするか。トップはどう いう決断をするか。そのときにいろんな資料はもちろんつけるわけです。バランスシート とかPLとか、値段がどれくらい違ったかとか、そういういろんな資料をつけて、それを 生徒に渡す。
それで教師はたとえばあしたの授業、あさっての授業までに本を読んできなさい、これ が参考資料ですというんで、5、6冊の本を渡すわけです。これを全部読みませんと、そ の2日あとのそのケースについてのディスカッションに加われないわけです。加われない どころでなくて、本を読んでないと、ただ黙って座っているしかない。そうするとまた特 殊視されますし、何のために学校に行っているのかわからなくなるわけです。これで彼らが何を学ぶかというと、いわゆるクリティカル・デシジョン・メイキングというか、非常 に重要な決定はどうやって会社ではやるものなのか、企業というのはどういうふうな動き 方をするものなのか、それから一番大切な、いつも正解、100%正しい答えはない、むしろ どっちかというとセカンドベストというか、そういうアンサーがあってもいいんだという、 そういう訓練を受けるわけです。
こういうケースを卒業までに700とか800とかそのくらい生徒がやりますので、卒業する ときには、かなりそういうことについて訓練されたグラデュエートスクールの卒業生が出 てきますので、そういう連中を向こうのトップの企業は、相当高給を出して雇うわけです。 そういうインセンティブがあるものですから、また学生も死にものぐるいになって、これ をやるわけです。こういうことを日本の非常に少数の方々がハーバードだとかスタンフォ ードに行ってやっておられますが、どのくらいこなしてこられたかというのは、私はたい へん疑問に実は思っているわけです。
それは先ほど申し上げた英語の力とか、発表能力とか、あらゆることが日本の場合遅れ ていると、私は感じております。この方式がすべていいとは言いません。たとえばリベラ ルアーツをまずやって、そして基礎の勉強をやったうえでグラデュエートスクールでこう いうことをやるというのがいいと思いますが、何でもこれをやるという必要は、まったく ないと思います。しかし日本の大学の教え方も、そろそろそういう厳しいやり方に変換し ていきませんと、世界の競争に追いついていけない、トップが追いついていけない。今の 状況を考えると、あるいは今変わっているのかもしれませんが、私どものころは、とにか く大学に入るまでがたいへんで、入ったら遊んでしまう、それで4年遊んで、それから何 とか就職をするというのが現状ではないかと。これではいわゆるトップマネージメントの 世界で本当に競争していく人は育っていかないのではないかと、私は危惧しております。
磯村

ありがとうございます。非常に重要な問題をいっぱいちりばめてご発言になったの で、今司会としては、そろそろ時間が気になるところなんですが、ふたつの問題があると 思うんです。発表能力とか語学の問題、語学の問題では前回東大総長の蓮實さんが、非常 に刺激的な発言を最後のほうでなさいました。英語は語学ではない、もうこれは全員が知 っていなければならない、ひとつの標準語的なものだと。この英語というか語学という 意味では、再びルノー日産にいきますと、このあいだ私はパリで日本からくるテレビを見ていたんですが、何か差し障りがあったらごめんなさい、塙さんという方は非常に立派な会 長さんだと思うんですが、あの自分の会社の重要な時期に、社員の前で紙を読み上げた。 そのあとにゴーンが登場して、まだ10週間と日本語を勉強していないんですが、でも一生 懸命社員に、今君たちはたいへんな時期なんだ、だから2万1000人の人員整理をするとい うのを日本語でやりましたよね。ご覧になった方、いらっしゃいますか。そういう一種の サービス精神、この差ですね。
大事なときに紙を読み上げるか、本当に10週間の日本語でも語りかけるか、そのコミュ ニケーションというもの。日本では言葉のたつ人間は徳が薄いんだみたいなとこがあって、 男は黙って勝負するというような。自分は口べただと言っている、大木君どうですか、ま ず語学という問題と、五島さんも無口な方だったらしいけど、そこらへんの東洋的道徳と、 これからの世界化においてどういうふうに考えるかという。まず語学の問題をひとわたり、 中條さんにも長谷川さんにもうかがって、これは短くお答えいただければ、助かります。
大木

語学は、とにかく戦争でB29の翼の300メートルか400メートルくらい下のところで、 平塚は爆撃をされました。自分の家も燃えていきましたが、燃えていったなかでスターズ・ アンド・ストライブスの主翼の下のマークを見ておりますので、さあ戦争が終わった、英 語だといっても、どうしてもやる気になりませんでした。したがってそれが非常に強かっ たものですから、たまたま文乙に入ったときにドイツ語に首を突っ込んだんです。たまた まドイツを旅したとき、尾高朝雄先生からハイデルベルクに行ったとき詠んだ句だといっ て、”山の端に月のハイデルベルクかな” なんてことを講義の枕で聞いたことを思い出し、 ネッカーフルスの岸辺でその山の端を眺めていると、おれはもう少しやらなければいけな かったかなと、嘆き節を唸っています。今現在はそういう状況で、やはり負けたというか やられたというか、自分のものが燃えたというか、それを目の前で見ていますので、ちょ っと手が出なかったというのが実状です。
磯村

どうも意地悪な質問を、同級生がして申し訳ないんだけど。中條さんは語学とかそ ういうもの、どういうふうにお考えですか。
中條

もう語学は論議をする余地なし。しかし私の過去を見ますと、種類だけは多いんで す。英語をちょっとやって、士官学校では仮想敵国がロシアですからロシア語なんです。 そして復員してきて、桜井和市さんの、旧制松本高校では文乙で第1外国語はドイツ語ですから。ですから種類だけは多いんですが、なにせ士官学校のときは英語なんていうのは 敵性語だから使ってはいけないというんですから。ですから今72歳になってみますと、も う痛いほどわかります。第一我々軍隊でも、日本語でもわからないんですよ。だから皆さ んも考えて、たとえばお母さんから君は、あんたは不良だと言われた不良という概念が、 お母さんの持っている概念と受け取り手の娘の概念が、どれほどフィットしているかとい う課題すらあるんですから。ですからこれだけの世の中になってきたら、英語をしっかり 身につけるなんて当たり前だと思いますね。
磯村

長谷川さんは、ヨーロッパの要人の、ハプスブルグ家のオットー大公とか、いろん な方とおつきあいがありますが、今申し上げた語学の問題と、それから日本人はどうも発 表、コミュニケーションをするというのが、まず意欲からして薄いのではないかと。そこ らへんはどうですか。
長谷川

おっしゃるとおりですね。先ほど磯村さんがいろいろおっしゃったことは、日本 人の礼儀作法のなかで誤解を招く面があるのではないかということでした。そこでふっと 思い出したのは、日本には「沈黙は金」という言葉がありますね。国際的に特に欧米系の 人たちといろいろつきあっていくときに、「沈黙は金」ということばかり頭にあると、これ は逆に「沈黙は失礼」ということになっちゃうんですね。そのうちに向こうの人が時計を 見て退席してしまうということになりかねませんから、これは注意しなければいけないと 私も思います。
それともうひとつ、オットー大公の話ですが、2、3年前、EUの本部があるブラッセ ルでオットー大公にお会いしたことがあるんです。そのときにオット一大公が5番目のお 嬢様のバルブルガ伯爵夫人、スウェーデンの伯爵夫人を連れてこられて、彼女はかわいら しい、まだ若い人ですが、その方たちとお話ししていたときに感じたことがあります。私 自身はもともと一生懸命英語を勉強したんですが、どうも身につきませんから、もう20年 くらい前から、一級の通訳をとにかく連れて歩く。それも本当に一級でなければならない ということで、カネがかかりましたが、外国に行くときは必ず連れていきます。そのほか もちろん自分の会社の通訳のできる社員も横にいますが、一級の通訳を連れていきますと、 違うなあということを本当に感じました。
先ほどの話に戻りますが、ブラッセルでオットー大公にお会いしたときのこと。私の連れていった通訳は、敬語も含めて礼儀に合った英語でてきぱきとしゃべっている。そういう 通訳は日本語もうまいんです。てきぱきときちっと返してくる。そうすると何となく雰囲 気が盛り上る。最後に夕食会が終わって、もう11時ごろですが、お別れに廊下からロビー に出ても、オットー大公はちっともお帰りにならない。通訳の彼女と話し込んで、それか ら私と話し込んで。お別れしたあとで感じました。もしいい通訳を使っていなかったら、 いい言葉で丁寧にしゃべり続けていなかったら、たぶんオットー大公は途中で、「きょうは 忙しいので失礼します」と帰ってしまわれたかもしれないと。そんなことを感じました。
磯村

ありがとうございました。もう一点ちょっと、最後がせわしくなって恐縮ですが、 安田さんが提起された問題はもうひとつございまして、日本の今の教育はマルバツ式です から、答えはひとつというものが求められるわけです。ところが人生のあらゆる問題は、 答えはひとつではないわけで、そういうところの教育が、かつての旧制高等学校の場合に は一般教養というもの、いわゆるアメリカ式でいえばジェネラルアーツというようなもの をたたき込んで、プラス語学をたたき込むということが行われて、そして大学でそれを延 長していくということであったわけですが、今の日本の教育はあまりにも専門的なこと、 細かいことを、ケースメソッドとは違いますが、細かい具体的なことは教え込むけれど、 一般的な教養、ものを考えさせるというようなことが、どうも希薄なのではないかと。
文花隆という評論家がおります。この人が月刊の「文藝春秋」に、東大生は教養がない という文章を書いています。これはどういう意味かというと、東大生は確かにスペシャリ スト教育は受けるんだけれど、最近の東大生はですが、ないしは戦後の東大出の人は、だ から大蔵省がだめになっている、高級官僚がだめなのは、そういうスペシャリスト教育で 本当に全般を見る視野に欠けていたからなのだということなんですが、ここらへんはどな たか、中條さん、何かご意見ありますか。
中條

戦後、型にはめる軍人の学校から旧制高校に行ったら、まったく裏側ですね、フリ ーフリー。そして今安田さんのお話を聞いていると、向こうの教育というのは、我々が士 官学校を出て本科に行って戦術を習っているのといっしょですね。それで昔の日本の、私 は明治の男たちの知恵だと思うんですが、旧制高校の定員は帝国大学の定員とほぼイコー ルにしてありましたから、要するにエリート教育だったんです。ですからほんの一部しか 行かない。ところが定員がいっしょだから、旧制高校に入るのは難しいけれど、入ったらもう大学にほぼ行ける。おれは遊んだから東大はだめでも京大に行くといって行ける程度 でしたから。今磯村さんのおっしゃったように専門学科をひとつもやらない。全部自分の 人格だとか、要するに読書だとか語学だとか、ともかくオールラウンドな人間の訓練なん です。その期間をなくして、それで効率的に偏差値がすべてのように把えてきた戦後の教 育を、今改めるべきときが来ているのではないかという気はします。
磯村

そうでしょうね。有名な話ですが、ドイツが後発の資本主義国としてイギリスを追 い上げたときに、イギリスはこれではいけない、教育制度にもっと実技を取り入れなけれ ばいけないということで、視察団までドイツに送った。ところが2度にわたる大戦で、結 局ドイツは2度とも敗けたわけです。それでその原因のひとつが、たとえばチャーチルと いう人は、あれは古代ギリシャ語かなんかを勉強していた、しかしそういう指導者に率い られた国のほうが、あらゆる意味でバランス感覚があったということなんです。戦後の日 本の教育はどうも立花さんじゃないけれど、そういうことで、やや狭くなりすぎていって いるのではないかと。
エリートという言葉はもちろん現在は禁句ですね。ここに先生方がいらっしゃると思い ますが、君たちエリートだから頑張れなんていうことを言ったら、きょうは父母会の方が 180人くらいいらっしゃってるそうですが、たちまちその先生はつるし上げられる。しかし この悪平等で、できない子を一生懸命支えていると、皆様方、今の日本の苦境になるわけ です。できる子はどんどん伸ばしてやって、そしてできない子は場合によっては昔の学習 院みたいに落とすくらいの対応が急務であること、世界の環境はそれほど厳しくなってい るというようなあたりが、私の結論にしたいところなんですが、あとちょっと時間がござ いますから、私が会場の学生諸君にひとつだけ質問をします。テムズ川というロンドンを 流れている川がありますが、テムズ川の深さを知っていますか? 誰か手があがれば、そ れで終わりにしたいと思います。学生だけです。これは父母の方は、ちょっと遠慮してく ださい。
実は私は20年近く前に東大の五月祭に呼ばれて、東大生が1000人近くおりましたか、同 じ質問をしたんです。というのは、その前の年に、国立行政学院というフランスきっての エリート養成機関で、その年の入学試験の問題がテムズ川の深さは、というんですね。口 頭試問のときの2次試験の課題です。答えはいくつもあるわけです。さっき安田さんが言ったように、人生の真理はひとつではない。20メートルと書いたから国立行政学院に入れ る、東大に入れるわけではない。正解は先生に問い返すことなんです。どの橋の下のこと をおっしゃってるんですかと、聞き返すことだと思います。これが今日本の教育に、私は 一番欠けていること、性急に答えを求めるのではなく問いを発することが大事なんです。 日本では質問はというと、まず手があがりません。私は今フランスの大学の大学院で教え ているんですが、質問はというと全員が手をあげます。
フランスの大学の入試センター試験にあたるもの、バカロレアと言いますが、この課題 は「つかの間のできごとに、価値はあるか」、これを4時間かけて5ページにまとめあげ る、去年は「知識は創造の妨げになるか」、これで4時間。14歳から18歳の子どもがそれに ついて答えを書いて、60万人今年は受けて、48万人、80%が合格してます。そのなかのエ リートがこの日本の政治家や実業家と渡り合うわけですから、これはたいへんなんです。 そういう問いかけをもって、私の司会の締めとさせていただきます。ちょうど時間になり ましたので、ここで終わらせていただきます。どうもご静聴ありがとうございました。
司会

どうもありがとうございました。皆様、どうぞもう一度大きな拍手をお願いいたし ます。長時間にわたりまして、素晴らしいお話を聞かせていただきました。どうもありが とうございました。
「学習院の継承すべき伝統と文化」、最後はテムズ川の深さについてという問いかけの話に なりましたが、改めて諸先輩方のお話を聞くことの大事さを、私もきょう実感したような 気がいたします。