「炭本君のこと」 -本多孝雄

昭和34年3月、私は昭和寮の先輩達がずらりと並んだ前で入寮面接試験を受けていた。
新木先生がおられたような気もするが、自治寮として若い学生ばかりの試験官に驚いた。
既に柔道部に入部手続きを終えていたのでクラブ活動の入寮条件を確保、幸いにも難関の昭和寮入寮を果せた。
同室になったのは、広島市出身の炭本照夫君である。彼は空手部に属していて道場も隣あわせであり、武道に対する考えも一致していたのでたちまち仲良しになった。部屋でお互いに胴着をつけ柔道の打ち込みをしたり、腹に座布団を巻きつけ空手の突きを受けたりした。部屋が2階だったため階下の住人からは随分と苦情を言われたことを覚えている。
ある日、空手に自信をもつ彼は新宿で喧嘩らしきことをし、顔と内股に傷を負って帰ってきた。「ボクシングにやられた」「空手より強いかもしれない」といって彼は泣いた。私は一晩中打撲した箇所を冷やしながら「空手のほうが強い」といって慰めた。
或る時、彼は誰にも内緒だといって、小学校に上がる前に原爆の被災にあったといい、被爆手帳を見せた。
卒業後(株)明電舎に就職した彼は、将来「社長をめざす」と抱負を私に語った。
その後彼と昭和寮の集まりで会った時、課長代理くらいであったが、立派な紳士になり会社業務も順調らしくはつらつとしていた。
私は銀行に就職し全国を13箇所も転勤した。地方勤務をしているある時、風の便りに彼が家族を残して亡くなったことをそれも随分後になって聞いた。
私が全国を回る転勤族だったからと云う言い訳はしないが、親友の逝去にも立ち会えなかったことを今残念に思う。
昭和寮での生活は集団生活の中で責任や義務の意味、権利の主張、民主主義とは等々社会人になる為の必須教育を叩き込まれた時間であり、青春時そのものであった。
寮生活のお陰で45年にも及ぶ社会人生活を全うすることが出来たといっても決して過言ではない。
既に老人の仲間入りするこの年になった今も当時の寮生仲間の顔と寮生活のさまざまな風景が昨日のように思い出される。
政治学科 昭和38年卒業
以上

One Response to 「炭本君のこと」 -本多孝雄

  1. 炭本照夫金の想い出のエッセイを拝見しました。炭本性は珍しく多分私の家の近所に居た炭本君に思えてきました。被爆地は広島市舟入川口町。彼の姉が私と小学校が同期に居たと思います。原爆でチリじりに壊された近隣の人たち、仲間たち、そんな中でひょっとしたら知り合いの消息に出会えたようで、胸にこみ上げるものがありました。良いエッセイを残していただき感謝いたします。

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