戦時下の昭和寮

開設以来、一人一室を原則とし、寮生各自の個性の尊重を第一の目標として指導されてきた昭和寮も、昭和十二年の日中戦争勃発後は寮の指導方針に徐々に変化が見られるようになった。
 昭和十四年には、それまでの教授二名の舎監に加えて、野村行一高等科長が舎監に任じられた。野村科長は昭和十六年三月まで舎監をつとめたが、その間は一〇日に一度程度の割合で昭和寮を訪れ、学生と会食した。野村科長が舎監をやめ、同時に戸沢富寿教授が舎監を退任した昭和十六年三月には、代わって学生監二名が昭和寮の舎監になっている(全掲舎監の表参照)。これらは時局柄、学生に対する監督をより重視するようになった結果であろう。
 このような、いわば転換期に入った昭和寮において、十六年十月、寮生の居室から出火騒ぎがおこった。幸い小火のうちに消し止めたが、消防隊まで出動したため、宮内省の知るところとなり、舎監・学生監は進退伺あるいは始末書を提出した。原因は学生の煙草の呼殻の不始末であり、その学生は不起訴(起訴猶予)処分を受けた。この当時は、高等学校の学生は未成年者でも喫煙を黙認されていたが、この事件ののちは寮生の喫煙をはじめ日常生活が、きびしく指導されるようになった。昭和十六年十二月の太平洋戦争突入後はさらにこの傾向が強まり、昭和十七年度からは、朝食前に委員の指揮により本館屋上に集合し、国旗掲揚・皇位遙拝などの朝礼を行うようになった。十月以後、この朝礼は休日も実地することとされた。また、大詔奉戴日には、舎監引率のもと早朝六時に寮を出発して命じ神宮参拝を行い、戦捷を祈願するのが恒例とされた。
 航空母艦発進のアメリカ陸軍機による本土初空襲があったのもこの年の四月であって、防空訓練もようやく本格化し、寮の燈火管制について警防団の点検をうけたり、有志の勤労作業によって本館屋上に防空監視所が設備されたりした。
寮制度の改革
 昭和十八年度からは、従来の制度を改めて寮生を高等科一年生に限定し、昭和寮を修練の場とすることになった。これは、昭和十八年三月改正(四月一日施行)高等学校規定第三章に「(高等学校)高等科ニ於テハ生徒ヲ寮舎ニ収容シテ修練ヲ為スベシ。但シ寮舎ニ収容シ得ザル生徒ニ対シテハ宿舎其ノ他ニ関シ適切ナル指導ヲ為スベシ」と定められたことに関連すると思われる。同規定第三章「修練」は、昭和十七年三月の高等学校に関する臨時措置の内容を条文化し制度化したもので、寄宿舎をこのように位置づける文部省の方針は、改正以前に明らかにされていたからである。
 寮制度の改革に伴い、昭和十七年の在寮生は翌年三月限りで退寮を余儀なくされることとなったため、山梨院長は十七年十二月その旨を全寮生に発表するとともに、十八年一月には寮生父兄会を開いて事情の説明を行った。こうして学年試験の終わった三月十七日午後、昭和寮では決別茶話が催された。院長・高等科長・舎関の挨拶ののち寮生がそれぞれ感想を述べ、寮歌の合唱と万歳三唱後、国旗を降下して会は終わり、この夜を最後に在寮生はすべて退寮した。
 昭和十八年四月の入寮に先だち、三月二十八日から一週間、高等科新一年生一四名を対象とする錬成会鎌倉の東慶寺で行われた。その趣旨は「学習院ニ於ケル学生修練ノ趣旨ニ則リ、寮生幹部ヲシテ学生訓ヲ日常ニ実践スルノ修練ニ徹底セシメ、以テ寮風ノ刷新振興ニ資セントス」とされていた。
 指導者は柴田道賢国民錬成所指導官で、昭和寮の舎監二名・卒業生一名も同行した。最終日の四月三日は午前二時に東慶寺を出て東海道を宮城前まで行軍した。
 四月五日に高等科の入学式が行われ、同日午後、昭和寮の入寮式が行われた。寮生は新一年生一〇九名であった。地方出身者の入寮を優先させ、その他は希望者の中から選んだ者である。

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