新木先生をお送りすることば -大木俊一

新木先生

こうして、先生のお写真の前に立ちますと、あの昭和寮で過ごしたなつかしい日々が、忘れようもない青春の日々が、鮮やかによみがえってきます。
私たちが昭和寮に入寮した頃は、まだ戦後の日も浅く、食べる物にも着る物にも事欠いた、貧しい時代でした。しかし、昭和寮に過ごした私たちの青春は、決して貧しくはありませんでした。それは、心を許し合える仲間を得られたこと、そして、何にもまして新木先生という、得難い指導者の薫陶を受けることが出来たことにあります。
昭和二十七年、私たち寮生は、歴史ある白亜の旧寮から、近くに建設された新寮へ移りましたが、それと同時に、新しい寮監を迎えることになりました。それが新木先生でした。

それまでにも寮監制度はありましたが、それはほとんど名ばかりで、実質的には完全な自治で運営されていました。そこへ新たに任命された寮監は、住居も寮の隣に構え、文字どおり寮生を監督することになるというのです。寮の自治運営の危機と受けとめた私たちは猛然と反発しました。学校に抗議をしたり、先生に直接話し合いを申し入れたりしました。しかし先生のご応対は一貫して穏やかで、理解に満ちたものでした。そして、私たちもいつのまにか先生の包容力の内に包み込まれていたのでした。
新寮に移った年の晩秋、初めての寮祭を開くことになり、私たちはアイディアを絞り合い、力を出し合って準備に没頭しました。そして気がついてみると、新木先生は、いつの間にか私たちの一員として、仲間に入っておられました。ごく自然に先生は私たちの内に溶け込まれていらっしゃいました。あの寮祭は大成功でした。今でもあの時に寮を包んだ一体感は、私たちの心の内に熱く残っております。
寮費の不足を補う資金集めに、ダンスパーティーを計画したことがありました。ところが、ダンスのダの字も知らない私たちは、全員ダンスの特訓を受ける羽目になりました。そんな私たちの前に、さっそうと現れた先生が、プロもはだしのステップを披露されたときには、正直言って度肝を抜かれました。そんな特技をお持ちとは失礼ながら想像もしていなかったのです。
先生は私たちと共通の場を持とうとされたのでしょうか、密かにダンスを習いに通われたのだと知ったのは、ずっと後になってからでした。
寮生活と酒とは、切っても切れない関係にあります。ここでも先生は私たちのリーダーでした。目白駅に近い赤提灯ののれんをくぐり、先生を囲んでヤキトリで一杯を酌み交わした夜は、何回あったでしょうか。その時の先生は私たちの良き相談相手でした。
しかし、酔ったあげくのいたずらで近くの看板などをかついで来ると、先生のすさまじい雷が落ちました。して良いことと、してはならないことのけじめを、きっちりと諭された先生も忘れることはできません。

私たちが卒業した昭和二十八年は、ここ数年よりもはるかに厳しい就職難の年でした。不景気のうえに、旧制最後と新制最初の大学卒業生の二年分が同時に世に出るという、大卒受難の時でした。私たちは必死に就職口を探して歩きました。その時の新木先生の献身的なお力添えこそは、先生の私たちに対するお心を、もっとも端的に示されたものでした。
先生は、就職の決まらない寮生を連れ、昔の教え子や知人の間を尋ね歩き、親兄弟も及ばない程のご援助を尽くされました。これはまさに寮監の職務をはるかに超えたご尽力でした。私たちは、この時の先生のお姿を忘れることは出来ません。
振り返って思えば、先生の一日はすべて寮生との関わりに費やされてしまっていたのではないでしょうか。寮の隣にある先生のお宅の扉は、二十四時間寮生のために開かれていました。そのために、先生の家庭生活は、全く犠牲にされていたのではないでしょうか。今日にして私たちは、先生の払われた犠牲の大きさを理解できる年齢となり、胸がふさがる思いがいたします。このような寮監が前にも後にも得られたでしょうか。
ここに思いを致すとき、先生の私たちに対するご慈愛の深さと、私たちがいかに幸せであったかを、深く思わざるを得ません。
私たちばかりでなく、先生はご友人、同僚、教え子たちに限りない配慮を尽くされました。
韓国・京城商高以来の同僚だった、R・H・ブライス教授の業績を後世に残そうと、独力で文献と寄稿を集め、・回想のブライス・という素晴らしい本を刊行されて、高い評価を得られたのも、その一つの表れと言えましょう。

このように、先生にまつわる思い出は、後から後から湧いて参ります。語り尽くすことなどはとてもできません。
今、私は思うのですが、先生は職務柄、寮監の義務として私たちに尽くされたのでしょうか。
いや、そうではなく、先生が口癖にされていた「ヤング・アット・ハート」つまり、「常に青春の心であれ」が、そのまま先生ご自身のお気持ちだったのではないでしょうか。つまり、先生は私たちに同世代の仲間として接してくださった。だからこそ、私たちも先生に親しみを込めて近づくことが出来たのではないでしょうか。
もう、お訊ねするすべもありませんが、先生も私たちと共に過ごされるのを、楽しんでいらっしゃったのではないかと思えてならないのです。
われわれ年代の昭和寮生の集まりは、ごく自然に「新木会」と名付けられました。それは、先生を知らない後輩たちが、ねたみを感ずるほどに親密な集いになりました。先生に対する私たちの思いの深さが、独りでににじみ出たのでしょうか。しかし、先生はきっと「もっと包容力を持った集まりにしなさい」とおっしゃるに違いありません。それは私たちの望みでもあります。これまでも、またこれからも、そのような集まりに向かって親しみ合っていく事を、先生の前にお誓いいたします。

新木先生。
お別れを申しあげる時が参りました。まだまだお話ししたい事が山ほどありますが、この後はここに参会している一人一人が心の中で申しあげます。

先生。
私たちは、先生から戴いたご教訓とご配慮を、一つとして忘れる事は出来ません。ここで先生をお送りする事になります。しかし、先生はずっと私たちの心の中にいらっしゃるのですから、お別れはしません。どうか、お心安く、お休みくだいますよう、お祈りいたします。

新木先生、有難うございました。

1999年1月23日
学習院昭和寮 新木先生を偲ぶ会を代表して
大木 俊一

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