「昭和寮と私」-小島貞勝

私の在寮は昭和33年から35年であったが退寮後半年程は寮生同様におっちゃん、おばちゃんから「ご飯は?」とツイツイ甘えて寮生の上前を撥ねて居たから実質在寮期間は2.5年と云った方が良さそう。
 難関の入寮テストを見事に突破して憧れの「学寮」に入寮した。世評とは違い清潔、団欒の寮であった。一般的には学寮は不潔、闘争の巣と言われていたが全然違った。昭和寮に生活したことを私は「人生の宝」と唱えている。寮生との交流も然る事ながら最大の宝は新木先生の背中から受けた教訓だった。
新木先生はどなたの文章にも登場なさると思うが本当に24時間寮生の善かれを考えて下さった舎監先生だった。
私が寮長を勤めさせて頂いた頃、先生から「育英会奨学金の学校枠を採って置きたい。寮生がどんな事情で必要になるか分からないので君に頼む。」とお話があったので早速応募した。運良く受給者に成れた。当時月に3,000円支給で月半に貰えたので、家からの送金時期からみて誰もが丁度小遣いの「端境期」、早い者勝ちで「通帳と印鑑!」と当り前の様に私から取り上げて郵便局で引き出して側(がわ)だけ帰ってきて中身は一銭もと言う事もしばしば。当時銀行の初任給が16,300円の時代だから、新宿で10人以上でも充分に飲めた。幸い「学校枠」を必要とする寮生は出なくて、卒業まで奨学金を受けた。
 先生の御友人が銀行協会に居られ、その関係で手形交換所の宿直のアルバイトを寮生の為にと手配して頂いていた。4時半から翌朝8時迄職員と2人で宿直室に泊り込む勤務で寮生は2人で1日交代に通勤した。事情で寮生の1人に欠員が出、誰も希望者が居なかったので「小島君!」とご指名があり、ピンチヒッターの積りが1年半も務めた。夜は見回り後寝るだけ。朝は交換場の掃除が仕事。金銭は愚か、手形の1枚も残っていないので「警備」の必要は無い。夜、宿直室のテレビを避けて静かな会議室で読書もOK!
 当時の世相で大学生の間では「ダンスパーティ」が大流行。猫も杓子も「ズンタッタ、ズンタッタ・・・・!」と遣っていた。大学構内か、貸しホールかで同好会等を名乗って部費稼ぎとか金儲けの手段に成っていた事もあった様だ。「我々もパーティを」と変な下心も隠して先生に御相談した所、積極賛同を頂いたが条件付。男性は寮生とOBのみ、パートナーの女性は各人同伴する事、会場は「海員倶楽部}実に本格的で格調が高かった。先ず先生が池袋のダンスホールで正式のダンスレッスンを受けてこられ、ダンスシューズも新調される入れ込み様。寮生も食堂での講習会に参加し、パートナーの見付らない者にはESSから、音楽部から、国文科からと面倒見の好い寮生がいた。
昨今 大学の話として「慶応や早稲田など一貫校は大学入学の為に中学から受験してくるが学習院は高校から他の大学へ進学する。」との嘆き節が聞かれる。大学の特徴が出せない為とか!学習院には旧制度として「全寮制」のキャリヤがある。新木先生の様に学生の目線に立ち、学生の行先も予見して行動できる名舎監を得て規律ある「全寮制大学」を!と言うのは手前味噌か? それ程私にとっては「人生の宝」であった。
以上

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