六寮時代(寮の始まり)
学習院の寮が始めて建てられたのは明治四十一年(1908年)、校舎が目白に移転した頃のことであった。十代目の乃木院長の時代である。移転の計画はずっと以前からあった。
六代目の田中光顕院長は校舎を富士山麓に移し、学生をことごとく寮に収容し、その周囲に教官の宿舎を設け、必要な商店もおいて、学習院村ともいうべきものをつくろうとした。また、七代目の近衛篤麿院長は小田原の旧城山を候補地に選び、そこに学習院の校舎、寮、官舎を建設しようとし、小田原町も町会を開いて、その受け入れを受諾した。しかし、これらの計画には反対もあって、実現に至らず、結局高田村、鶉山、稲荷原等の広大な土地が校地として選定され、同時に今の野球場に六棟の寮が建てられた。
六棟のうちで第一、第二寮は高等科生、第三寮以下は中等科生が居住し、乃木院長も総務部内の一室に住み、学生と寝食を共にしてその指導に当たったということである。学生はさぞ窮屈なことであったと思うが、乃木院長の考えは、イギリスのすぐれたカレッジ教育の方法に従い、日常生活を鍛えることによって、教養の高い紳士を養成しようとしたもののようである。今も残る学習院唱歌はこの頃作られた。
六寮時代 (1908年?26年)
- 明治時代
- 1904年(明治37年) 日露戦争開始
- 1905年(明治38年) ポーツマス条約調印
- 1908年(明治41年) 宣統帝溥儀即位・・・・・・・学習院が目白に移転
- 1910年(明治43年) 日本、大韓国を併合
- 大正時代
- 1914年(大正3年) 第一次世界大戦
- 1918年(大正7年) シベリア出兵。米騒動
- 1923年(大正12年) 関東大震災
- 1925年(大正14年) 治安維持法、普通選挙法公布
- 1926年(大正15年) 大正天皇崩御、昭和と改元・・六寮の廃止
- 昭和時代
- 1927年(昭和2年) 金融恐慌勃発・・・・・・・・旧昭和寮の建設