昭和寮の再開

敗戦後、昭和寮舎に学生が戻り、昭和二二(一九四七)年九月頃に寮が再開された。二二年度には二一名、二三年度には二四名の寮生が在籍していた。また二二年には「学習院昭和寮寮内規約」が定められ、寮生による選挙で選ばれた委員長、各寮室の代表である室代、庶務・風紀・食事などの委員らによる寮生自治が行われ、入寮希望者の選考も寮生が主体となって実施された。学習院大学が開学した昭和二四年には、新制大学一、二年生と旧制高等科三年生とが共に在寮し、二五年度から新制大学の学生寮として、学生部長の管轄下に置かれることとなった。
 当時の寮生は四棟あった寮舎の一棟を使用し、他の寮舎と舎監宿舎には戦災で住居を失った教職員およびその家族が入居していた。昭和二五年には二五世帯の教職員とその家族が居住している。二四年からは学習院女子教養学園の洋裁別科が寮本館に開設され、翌年には教養学園教養科も同じ建物に入った。昭和寮に学生・教職員とその家族・女子教養学園が共存する状態は、二六年度まで続いた。
 大学開学前後の東京は食料事情が悪く、親元を離れ地方から上京してきた昭和寮生の多くは苦しい生活を強いられた。倉橋定常務理事は、当時の寮生との会話を次のように回想している。

家からの仕送りがなくアルバイトによつて勉学を続けていた東北出身の寮生のS君とは、アルバイトを世話した関係で、私はよく一緒に話したものだ。
「君、寮の食事は充分ですか」
「配給量だけでやつていますから、朝飯のときに昼飯も一緒に食べないとお腹が一杯にならぬので、皆二食分を一度に食べます。お昼はぬきにするより外ありません」
「それじゃ夕食が足りなくて困るでせう、どうしていますか」
「えゝ、それで皆苦心していろ〈やつていますが、私はよいものを発見したのでそれを実行しています〉
「どういうことですか」
「大根です、アレが一番安価で満腹感が満点です」
「そうですか……しかし大根だけじゃ栄養がどうですかね」
「栄養なんて、そんなぜいたくを言つてる余裕などありませにょ、少しでも腹がふくれて勉強ができればまぁよいです」
 別に傷心の様子もなく、淡々として物語るS君の言葉を聞き乍ら、私は深い感動に打たれたのであつた。それ以来八百屋の店頭に大根を見れば昭和寮生を思い、また寮生に接すれば大根を連想した。そして空腹を大根に支え乍ら青い顔をして勉強している寮生諸君に、一度でもよいから満腹の贈物をしたいという切情に駆られていた。
(「大根に見えた昭和寮生」『不死鳥』昭和三二年)

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