新昭和寮開設当初の寮生の学歴は、旧制高等科・海軍兵学校出身、新制高等学校卒業など、さまざまであった。しかしいずれも戦時中の困窮苦難のときに学校教育をうけた経験をもっていた。昭和二十七年に至っても日本の食糧や生活物資の事情は窮乏していたので、寮生の生活、寮運営は容易なものではなかった。
寮生の気風は、荒々しい一面に素朴な明るさと暖かさがあり、これは旧制高等学校の寮生気質と同様なものであった。この時代に形成された昭和寮生の気風は、その後の、そして現在に至るまでの寮生に伝えられているように思われる。
新木舎監は次の事柄を心に留めるように折にふれては話した。
一、火の用心(殊に煙草の始末)をよくすること。
二、午後九時以後は放歌高吟をひかえること。
三、寮の職員(炊事員)を大切にすること。
四、寮職員の部屋に入らぬこと。
五、寮職員より金銭を借りぬこと。
きわめて当然・平凡なことであったが、新木舎監はこれが新昭和寮生活の基礎であると考えていた。
旧昭和寮は、高田馬場や新宿方面を見下ろす丘の上の広大な敷地に塀をめぐらし、その中に作られた堅牢な寮舎であった。新昭和寮はそれとは全く異なり、住宅に囲まれたせまい敷地建てられた脆弱な木造の建物である。一たび火災を起こせばたちまち炎上、隣接の民家類焼の危険はきわめて多い。
午後九時以後の放歌高吟をつつしまねばならぬことは、ことさらに言うまでもないことである。しかし、血気さかんな若者たちであるので、外出してアルコール類が入れば、夜がふけていても高吟し下駄を引きずって寮に戻ってくることもあり、周囲住宅の居住者から舎監のところへ苦情は堪えなかった。
本来、昭和寮は学生部に属するものであったから、学生部長の石上太郎教授は昭和寮運営のために、できる限りの協力を惜しまなかった。
昭和三十年八月、新木舎監の任期が終わったとき、安部院長はさらに一期の勤務を要請した。二回目の勤務二年半の後、昭和三十三年四月から一か年、新木教授はイギリスに留学した。その間、学生部の恒吉忠康参事が昭和寮舎監の委嘱をうけた。
昭和三十四年四月、帰国した新木教授はふたたび舎監となり、昭和三十七年三月その職を解かれた。
新木教授の後に舎監を委嘱された教授は左記のとおりである。
宇佐見邦雄 教授 昭和37・4・1? 42・3・31
山崎庸一朗 〃 〃42・4・1? 45・3・31
山本 功 〃 〃45・4・1? 49・6・23
川口 洋 〃 〃49・9・1?
学習院大学百年史 第三編(全三編)
昭和六十二年三月傘寿1日発行