昭和寮と私 -大羽恭史

 団塊の世代、最終グループに属する私たちは、昭和寮史では「現代昭和寮時代」に属するとか。古き良き昭和寮から、寮生が個人の人格や権利を主張する昭和寮への転換期にあったかと存じます。
寮生全員が参加討議する自治会総会で、「ドテンコ」廃止の決議をし、安藤先輩が涙を流さんばかりに悔しそうな表情を浮かべたことを思い出します。米価の値上げにより、月4,000円であった寮費を上げることも自治会総会で決議し、米の値上げ分だけを認めたことも懐かしい思い出です。佐々木のおっちゃんや、おばちゃんにはご苦労おかけしました。パセリのてんぷらや、味噌と汁が分離した味噌汁。大学から視察の方が来る時だけは肉料理(カツレツだったように記憶します)が出て、感激しました。
 田舎者の少年が昭和寮に入り、同世代の様々な個性と触れあい、一歩づつ大人になれたのでしょう。入学まもなく、読書会で八木史夫君の「楢山節考」に関する知見を聴き、深い洞察にぶったまげました。波多野君や惣万君、鴨志田君などと昭和寮歌を高吟し、鬼子母神まで散策しました。食堂で立川先輩や同室の小林繁吉君と卓球に興じ、佐々木のおっちゃん・おばちゃんペアがライバルでした。
あれが大人への登竜門だったのでしょうか。夜な夜な社交ダンス会場に忍び込み、女性にとって自分が魅力的な男でないことを悟りました。森誠一先輩、槍目先輩、立川先輩やおっちゃんに手ほどきを受けマージャンの腕を上げましたが、後輩の牧野民幸君、中根克英君などからカネを巻き上げる自分に、嫌気が差しました。目白のパチンコ屋ではちょっとした顔で、景品のタバコを喫茶店や雀荘に売りさばく私を、大島章君は「パチンコ屋」と呼んでいたようです。
同寮生で最初に寮長になった外崎武徳君を、パチンコの悪の世界に引きずり込んだのは私です。自己に厳しい外崎君が冬の寒い夜、「毛布を貸してくれ。これから富士山に登る」と言ってきた時はビックリしました。もう山手線は終電時間を過ぎています。落合秘境に二人で行き、人生を語り合いました。
昭和寮の横の道路を眼の不自由な按摩さんが通ります。外崎君は目白駅前でその按摩さんに遭うと、手を引いて横断歩道を渡らせてあげますが、私はいつも無視します。「おまえには優しさがない」と叱られましたが、私は「体の不自由な方が頑張っている。五体満足な私の為すべきことは何か、自問自答している」と応えました。
後年、外崎君にその話をしたところ覚えていないそうですが、私はその時の自分の言葉を、今でも引きずっています。
 多くの友人の顔と名前が浮かびます。誤字脱字がありましたら、お許し下さい。
(昭和45年退寮、昭和47年経済学部卒)

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