南北寮時代
終戦後の昭和二十二年、学習院は私立学校として再出発した。当時の財政難から旧昭和寮は日立へ五千万円で売却された。この金は、学校の施設復興に使われ、新しい学生寮は現在の地に建設された。その当時の昭和寮生四十名はそのまま新昭和寮に移され、新たに十二名加えて、五十二名、昭和二十七年九月に開寮した。建物は木造の二棟で、それぞれ南寮、北寮と呼ばれていた。このときから二人部屋制になったようである。当時の南北寮は木造で、暖房も大風呂がないなど決して設備が充実していたとは言えなかった。
会計も火の車で、たびたびOBや学校教職員がカンパによって急場をしのぐ一方、有名ピアニストを招待しての音楽会を寮生が企画し、院内大講堂で超満員 (千人余)を集め、その利益で洗濯機、テレビを購入した。新歓コンパやダスパーティー、黒んぼみこしはこの頃が起源で、他に南北寮対抗ソフトボールやバス旅行などがあった。寮祭は三日間に渡って行われ近所の子供と寮生の運動会や短大生を招いてのフォークダンス、演劇、民謡のど自慢でもりあがった。この不死鳥も昭和三十一年の春に寮の先輩と在寮生との交流、親睦を計ることを目的として昭和寮会が発足し、その機関誌として創刊され現在に至っている。表紙の「不死鳥」は安倍能成院長の筆による。
安倍能成(1883年から1966年)哲学者。愛媛県松山市出身。一高時代、阿部次郎、岩波茂雄らと親交。人間的、思想的影響を受ける。明治四十二年、東大哲学科卒、後に夏目漱石の門に入る。昭和二十二年幣原内閣の文相。同年本校院長。昭和寮生から受けた信頼と愛着は語り草。
南北寮時代(1952年から61年)
- 昭和時代
- 1947年(昭和22年) 学校教育法公布・・・・・・・学習院私学化
- 1948年(昭和23年) 極東軍事裁判判決
- 1950年(昭和25年) 朝鮮戦争勃発・・・・・・・・旧寮舎を日立に売却
- 1951年(昭和26年) 日米安全保障条約
- 1952年(昭和27年) ・・・・・・・・・・・・・・第二期昭和寮スタート
- 1954年(昭和29年) ビキニ水爆被災
- 1956年(昭和31年) 国連に日本加盟・・・・・・・不死鳥創刊号発行
- 1957年(昭和32年) ・・・・・・・・・・・・・・東都リーグ野球部優勝
- 1959年(昭和34年) 皇太子明仁親王殿下結婚の儀・朝見の儀
- 1962年(昭和37年) 東京都人口1000万人突破・南北寮取り壊し
- 1963年(昭和38年) ケネディ米大統領暗殺・・・・現昭和寮の改築