新木先生 -吉崎 彰一(49年)

新木先生が亡くなられた。

平成10年10月13日。 満94歳でした。

先生は、ずっと生きられる・・・というふうにおもっていたものだから、急な死を知らされた時は、混乱してしまい、その時には涙はでなかった。

先生は、東京都板橋区高島平の公団に、パーキンソン病で寝たきりの奥様とつつましく暮らしておられた。

最後にお会いしたのは、6月28日、亡くなられる三か月前のことである。

10時にお伺いする。 介護のTさんが元気な笑顔で迎えてくださる。 先生は,ちょうど起きられたところだった。

近頃の先生は、目がほとんど見えなくなったのと、足がよわくなったので、外出は車椅子となり、好きな本を買われたり病院に出かけるくらいで、家に居られることの方が多いようだ。

挨拶の後、食卓に座り、もっぱら先生がお話になることを聞くのが小生の楽しみである。

一緒に昼食を頂くが、先生は余り食べられなかった。

そのうち、先生は「本棚に積んである本を10冊持って行きなさい。」と言われる。

本の山から適当なのを選び先生の前に置く。 先生は、そのうちの一冊に目を留められ、「これはいい本です。」と言って、ペンで書く場所を手さぐりしながら、『謹呈 吉崎彰一稚兄 一九九八年六月二十八日 新木正之介』と書かれ、渡してくださった。

「人からもらった忘れられない言葉」(岐阜県笠原町編)という本だった。

先生は、私が忘れてしまったようなことでも覚えていらっしゃって、よく私との出会いを懐かしそうにおっしゃる。 「吉崎君は、英語の授業が終わった時に『先生は昭和寮のの寮監をされていたのですか。 私は寮生です。』といってきたんだよね・・・」と学習院大学の英語教授時代を思い出される。 そして、あのときのテキストは、「○○」でしたねと言われ、すっかり忘れてしまっている私は、冷や汗をながしたものだった。

お疲れだろうから、そろそろ失礼しようと思う頃、先生は「富士の高嶺に降る雪も、京都ポント町に降る雪も」の歌を知っているね。と言われ、先生が歌われるのについて一緒に歌った。

そして、見えないので感じで書いていると言われながら

富士の高嶺にふる雪も

京都ポント町に降る雪も

雪にかわりがあるじゃなし

とけて流れりゃ 皆同じ

高貴の方々も 新木正之介も

どうやら 皆 おなじらしい

と書かれ、それを下さった。

次に先生は、「吉崎君、身なりや職業によって、決して人を見下したりしてはいけないよ。」とおっしゃる。

最後に「縁と言うものは不思議なもの」と何度もつぶやかれた。

先生のお宅を辞して、帰りの新幹線から、頂上が雲におおわれた黒い富士が見えた。 「富士の高嶺に」が口をついてでる。

いただいた本の中のこんな言葉が印象に残った。

「死ぬっていうことはな。

愛してくれた人の心の中に生まれるってことなんだ。」

shinki