新昭和寮の開設と寮生活

昭和26(1951)年9月、本章第二節で触れたように、昭和寮は大学の教室・研究室などの贈築設備のために売却されることとなり、これに代わる新たな寮の建設が新宿下落合に計画された。寮舎は27年8月完成し、昭和寮の名を継承した。新たな昭和寮は、木造モルタルの二階建で26室が置かれた。一室に二名が入るため定員は52名である。35年には、学習院創立八十五周年記念事業の一環として、木造寮舎に隣接して鉄筋コンクリート造三階建・屋上付の新寮舎が建設された。新寮舎は一階から三階まで各241㎡で、一階には5部屋と玄関・浴室などが、二階と三階にはそれぞれ10部屋が配置された。部屋はすべて六畳南向きで、定員は50名となった。木造寮舎は一部が取り壊され、食堂・休養室などは引き続いて使用された。
 昭和27年9月、旧昭和寮から移った学生39名に13名が新たに加わり、計52名の寮生による新しい寮での生活が始まった。同年11月までには「昭和寮規約」および「昭和寮自治規約」「寮生心得」が制定されている。寮費は27年当時で月額400円とされ、他に食費、光熱費、自治費などは徴収された。
 下宿に比べ経済的負担が少ないことから、地方出身の学生の多くが昭和寮への入寮を希望した。しかし全員の希望を満たすことは困難で、入寮の機会を均等するために在寮期間は二年に制限された。入寮者は、教職員と寮生との双方から選出された選考委員が面接を実施して決められた。そして「寮内の生活は寮生の自治によつてこれを律する」(規約第四条)ことが原則とされた。寮生は自治会を組織して委員長と会計・厚生・風紀点検など委員を選び、寮の運営にあたった。
 「昭和寮規約」には、「本寮には学長に指名する寮監一名を置き、全寮生と寮生々活の理想と目的達成に努力する」(第七条)とあり、27年9月1日付新木正之介教授が舎監の委嘱を受けた。当初、寮生は学生自治を理由に舎監設置の必要なしとして、新木教授および安部学長にその旨を主張したが、学長は意見を変えず、新木教授は家族と共に舎監宿舎に入居した。また佐々木智徳・みのる夫妻が、食事の世話などの管理運営にあたった。新木舎監と佐々木夫妻は、寮生の自主性を尊重して寮生活の向上に尽力し、厚い信頼を寄せられるようになった。新木教授は、昭和33年のイギリス留学期間を除いて37年3月まで舎監を務めた。佐々木夫妻は昭和58年まで、30年にわたって寮生の面倒をみることとなった。新木の後、舎監に就任した教員は以下の通りである。

宇佐見邦雄 教授 昭和三七年四月一日?四二年三月三一日
山崎庸一朗 教授 昭和四二年四月一日?四五年三月三一日
山本  功 教授 昭和四五年四月一日?四九年六月二三日
川口  洋 教授 昭和四九年九月一日?五七年九月一四日
Wile,Klaus 教授 昭和五七年九月一五日?六一年三月三十一日
諏訪 哲朗 教授 昭和六一年四月一日?平成九年三月三十一日

 昭和寮では一年の間に、春の新寮生歓迎・退寮生追出しコンパ、秋の寮祭、バス旅行、教員を招いての会食など、さまざまな行事が行われた。昭和32年6月26日には、寮主催による、バイオリン奏者厳本真理のリサイタルが開催され、開場の大講義室に1000人を越える聴衆を集め大成功を収めた。その際の収入によって電気洗濯機が購入されている。昭和31年には、寮出身者および在寮生の親睦を目的として昭和寮会が発足し、会誌『不死鳥』が創刊された。『不死鳥』は平成九(1997)年に昭和寮が閉寮されるまでに、通算34号が発行された。
 秋の寮祭では、仮装行列・子供たちとの運動会・演芸・ダンスパーティーなどが企画され、寮生と地域との親睦が深められた。仮装行列は昭和30年代の半ばに「黒んぼみこし」と称して全身黒塗りのいでたちでみこしを担ぎ、目白通りからキャンパスまでを練り歩くスタイルとなり、学習院名物として定着した。しかし平成8年、黒塗りの格好が人種差別につながるとの批判が寮内からおこり、寮生の間で議論された結果同年に廃止された。

学習院大学五十年史 上巻
平成12(2000)年3月31日発行

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