昭和寮では昭和三年の開寮以来、毎年端午の節句に当たる五月五日前後の土曜日を選んで寮祭を催し、寮生の家族、友人知己を招いた接待をした。寮祭は、卒業寮生がふえるにつれ、年をおって盛会となった。たとえば昭和一四年の寮祭は五月一三日、翌一五年には五月四日に催された。両年とも午後三時ごろから来会者と寮生は模擬店を囲んで交歓し、夕食を共にした後は福引きや各寮の演劇・音楽などの余興を楽しんだ。寮歌の合唱と万歳三唱ののち、散会したのは夜一〇時ごろであった。卒業寮生のうちには京都・仙台の大学から馳せつける者あり、来会者は二〇〇名余に上った。
昭和四年八月、昭和寮の機関誌として『昭和』が発刊された。創刊号発行に先だって次のように細則が定められた。
雑誌編輯細則
一、高等科寄宿舎ハ毎年三回雑誌(昭和)ヲ発兌ス
二、毎回交代ニ各寮々務委員二名宛編輯主任トナリ雑誌編輯ニ関スル庶務ヲ主管シ之カ責ニ任ス
三、編輯主任ハ各寮々生中ヨリ二名乃至三名宛編輯係ヲ任命シ雑誌編輯ニ当ラシム
四、雑誌(昭和)ハ本院教授本寄宿舎先輩及寮生ノ投稿ヲ載ス
但シ編輯主任ハ寮務委員会ニ語リテ特別投稿ヲ記載スルコトヲ得
五、編輯主任ハ随時寮歌ヲ募集シ之ヲ寮務委員会議ニ語リ及雑上ニ掲載ス
六、雑誌原稿ハ必ス予メ舎監ノ検閲ヲ受クヘシ
七、雑誌編輯ニ関スル希望ハ編輯主任若クハ編輯係ニ申出ツヘシ
第二号以降も大体はこれに基づいて発行されたが、発行回数は翌年から二回に改められた。その大きさはA5判・二〇〇ページ前後、発行部数は一五〇?二〇〇部で、詩・論文・紀行などのほか、全寮日誌・全寮だより・各室だよりが掲載され、寮の生活をうかがい知ることができる。第二号(昭和四年一二月発行)には、寮生が作詞・作曲した学習院昭和寮々歌が発表されている。
学習院昭和寮々歌
作歌 末正 久
作曲 山内豊文
(一)
創造の歩み雄々しくも 生れ出でたる昭和寮
力溢るゝ喜びに 五十の男の子相抱き
若き生命の瞬間を 歌ひ明さん高らかに
(二)
水色の闇せまりきて 灯火の影のゆらぐ時
歌の流れの誘へば 散り来る花の一片に
くれゆく春を惜しみつゝ 過ぎにし日をば顧みん
(三)
みどり静けき丘の上に 微風渡る夏の夕
乙女の星を慕ひつゝ 寮の窓辺に近寄れば
啓示の光またゝきて 若き眸に涙あり
(四)
あゝ澄明の秋の月 誠の友と野をゆけば
葉末にすだく虫の音に 若き心の絃ふれて
静寂の森の奥深く 思索を語る君と我
(五)
地平の彼方富士の根に 冬の陽ざしの影ろひて
木枯窓を過ぎゆけば 落葉の舞に訪れに
多感の遊子今はたゞ 籠りて清き団欒かな
(六)
学びの庭の春と秋 三年の契りと浅けれど
交みに得たる魂を呼び 希望の光宗に秘め
ゆふべ憩ひし丘の上に 四寮の栄をたゝへなん