「わが青春と昭和寮」 -深田雅敏

「わが青春と昭和寮」 

 平成20年11月某日。わたしは俳句仲間と学習院大学のキャンパスへ吟行に出掛けた。久しぶりの母校は何とも懐かしく、緑の濃さに感動した。
<黄落や図書館三階まで灯る>と,A子は、高い木の繁りのさまを詠んだ。私は、学生時代の懐旧の思いを<青春は冬日の中の西本館>と読んでみた。
 私が学習院大学に入学したのは、昭和30年(1955年)、今から54年前である。当時のキャンパスは、現在よりはるかに劣っていたが、雰囲気は悪くなかった。それは、緑の豊かさであったかもしれない。桜の木は、現在より元気であったように思う。大学の空気は、自由と健全。学生運動は私学の中では穏健であった。そうしたなかで、私はすぐに大学生活に馴染んでいった。安倍能成院長の講話は、自由と自立、それに伴う責任という内容が多かった。自分の空き時間は、もっぱら図書館で過ごすこととなった。お小遣いが豊かでなかったので、逆に外国の古典を読んだ。
 二年生の夏、一般学生用の昭和寮への入寮が許可された。片道2時間20分の通学時間が二十分になり、大いに助かった。親から離れた生活は自分を鍛えてくれたと思う。
 昭和寮の舎監は、文学部教授(英文学・後に名誉教授)新木正之介先生であった。先生には大きな影響を受けた。入寮して間もなく、新入寮生のうち、二年の五人が先生に連れられて、目白駅前の池袋に向かった線路際崖上の吹けば飛ぶような一杯飲み屋に入った。安い、ぼらない、美味くはないが、ともかく信頼できる「セッちゃん」という店であった。金の無い、君たちの行くのは、歩いて帰れる店がよい、という次第。
 次に、ダンスがある。秋の寮祭の最後は、食堂の机(食卓)をかたづけてダンスパーティーを行うことになった。相手は、大学の女子学生と近くの目白ドレスメーカーの生徒さん。寮生の全員が地方出身で、その殆どがダンスは駄目。新木先生の英国仕込みの本格ダンスの指導が夜の食堂で行われたのである。先生のお考えでは、紳士のおしゃれの一つは、きちんとした社交ダンスが出来ることであり、決して麻雀や鯨飲馬食ではなかった。
 三年の夏、私は寮の委員長に選出された。その年の寮祭のメイン・イベントとして、岩本マリ(?)のバイオリン独奏会を大講堂(歩けば床が鳴る建物だったが)で行い、その収益金で洗濯機二台購入した、と記憶している。(記憶が少し、あやふやなところあり)
 三年生の時の英語担任は新木先生。教材は、チャールズ・ディケンズの「グッドバイ・ミスター・チップス(チップス先生さようなら)」であった。寮の舎監であるチップス先生が、定年で学校と寮からさることになった。それは、チップス先生と生徒たちの日々の生活を通じての人間と人間の物語で、まさに新木先生と重なったのである。

 私の青春とは、学習院大学の生活であり、拠点は昭和寮であり、その中に新木先生の存在があった。

深田雅敏 (1959年・政経卒)

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