ここに記述する昭和寮は、昭和二十七年(一九五二)に新宿区下落合二丁目一七番地二〇号の敷地(二、二九二平方㍍)に寮舎が建築され、その年の九月より新制大学の学生五一名が寮生活をはじめて現在に及んでいる寮のことである。
旧の昭和寮は、昭和三年(一九二八)に旧制高等科学生の寄宿舎として、現在の新宿区下落合二丁目一三番二八号の敷地(一万一、二六二平方㍍)に建設された。西洋式建築の堅牢な建物(二、八〇三平方㍍)で、本館(内部に集会室・図書室・娯楽室・食堂・調理室・浴場・事務室・用務員室が設けられた)、四棟の学生寮舎、守衛所から成るものである。終戦後も旧制高等科の学生が、その中の一棟の学生寮舎に寄宿し、昭和二十四年新制大学が発足してからは、大学の学生が三十余名ここで寮生活をしていた。ここにはまた、戦争によって家を失った教職員十数名とその家族が、三棟の学生寮舎および舎監宿舎の中の部屋を貸与されて生活していた。本館では二十四年から女子教養学園が開設されていた(第二章第六節参照)。
昭和二十六年に学習院は、大学の教室・研究室などの増築整備の必要から、旧昭和寮の土地建物を売却し、その代金によって、大学に必要な施設を整える方針を定めた。譲渡するためには、居住していた教職員とその家族および寄宿の学生を他に移さねばならなかった。教職員のためには宿舎が豊島区長崎三丁目に建てられた。学生のためには下落合二丁目に木造モルタル二階建の宿舎(六八六平方㍍)および木造モルタル平塚建の舎監宿舎(四八平方㍍)が建築された。(教職員宿舎・寮舎が建てられた長崎・下落合の敷地は、昭和二十三年に現在の高田中学校の敷地を学習院が割譲した代わりに取得した所である。)
学生の寮舎は、二人一部屋二五と静養室一・食堂・浴室・調理室および教員(炊事員)の部屋から成っている。この寮の名称は旧の寮名を受継ぎ「昭和寮」とされた。なお、寮舎は昭和三十五年八月、鉄筋コンクリート三階一部二階建(七四一平方㍍)のものが新築され、それまでの木造の寮舎の一部はその後取りこわされたが、食堂・調理室および教員の部屋は引きつづき現在も使用されている。またこのとき舎監宿舎に一部屋が建増しされた。