旧寮の時代・寮祭初体験 -丸山 昭

旧寮の時代

1949(昭24)年に私が入居したのは、新宿区下落合1ノ36(現2ノ13)、あの目白高台で南面した頂にある昭和寮だった。そう、山手線で高田馬場から目白駅に進入する直前、左手の丘の上に優雅な姿を誇る一群の白亜の洋館がそれ。英国の名門イートン校の学生寮を模したといわれる名建築。地上二階、地下一階の本館を囲んで、二〇近い居室に広間を備えた二階建ての寮が五棟建っていた。
戦後の学生寮は、第一寮の一二室に二段ベッドを置いて二四名が定員だったけれども、それにあふれた寮生を収容するために二階にある広間に三ベッドを仮設して、合計二七名が住んでいた。本館と第二寮以下の各建物は、教師の家族や関係者の住居に当てられていて、あのドイツ哲学の泰斗、ロベルト・シンチガー教授もお嬢さんと本館に住んでいた。
昭和寮は、当時としてもあまり例のない完全自治制で、学校からは一応名目的に寮監として筧泰彦教授が任命されてはいたけれど、実際の運営は一切寮生が取り仕切っていた。つまり、寮の委員長以下、各委員が責任を持って自律的に運営していたわけ。ということは、入寮希望者に面接して可否を決めるのも寮生の委員で、これって今考えても異色だよね。
費用はもちろん全部自己負担。食事は本館地下に住んでいた関係者のおばちゃんに委託して、全て寮生の費用で賄っていた。食料委員なんていう担当もあって、食料不足の時代だったから、日曜日にはリュックを背負って、郊外の農家に買出しに出かけたこともあったんだそうだ。
風紀点検委員というコワモテ役職があって、寮内女人禁制の厳しい規律を維持しただけではなく、軟派な寮生には手厳しい「忠告」もしていたなあ。
寮生の懐具合からしても、寮費の値上げは難しかったので、寮の財政はいつも火の車。そこでガラにもなくダンスパーティーを企画して、全員付け焼刃の練習をしながらパー券を売りまくった。当時の金で七万円も稼いで一息ついたこともあったっけ。
こうして、人格形成の大事な一時期、多感な青年時代を同じ釜の飯を食って過ごした寮友は、今でも兄弟よりも堅い絆で結ばれている。

寮祭初体験

1952(昭27)年、学習院もご多分にもれず資金難に苦しんで、昭和寮は日立に売却されてしまった。代わりにもっと駅よりの地に、木造二階建ての新寮が建てられて、旧寮住人の我々はそこに引越した。部屋数は増えたので、寮生も一挙に五〇人を超えることになった。
新しい寮に移って、ニギヤカシに何か節目になるようなことをしようじゃないかと衆議がまとまって、第一回の寮祭を計画した。もちろん経験者なんかいないので、全ては初体験である。
メインイベントは中庭に設営した仮設劇場で演ずる隠し芸の数々ということになった。劇場といっても、机を並べた舞台だけである。劇場名は「テアトル・カルシューム」に決まった。この名前の元は旧寮時代の悲話にある。自治制の旧寮では、いつも会計は火の車だったため、寮生の食事は貧困を極めた。これでは生存も危ういのではないかと、外部に栄養価の分析を依頼したところ、カロリー不足も決定的だが、中でもミネラル等の栄養素が不充分、カルシュームにいたっては生後半年の乳児の必要量を満たす程度であると警告された。寮生の頭の回転の鈍いのは、さてはカルシューム不足のせいであったかと、食事の改善、つまり食費の値上げに追い込まれた事件があった。だから当時の寮生の頭は、カルシューム摂取で一杯であった。
劇場の演し物は多様だったが、「童謡の合唱」というタイトルで、出演者一同が「合掌」をしながら「動揺」するという駄洒落めいたものが多かった。
このほか、各室はそれぞれのアイディアで飾り付けて、来会者の目を楽しませ(あるいは驚かせ)た。
歴史に残る催しは「ラブレター展」である。あまり趣味の良くない企画だが、圧倒的に観客の興味をひいた。発信者と受信者(全て寮生)の名前を黒紙で覆っただけで、あふれる熱情を縷々綴った手紙(中には巻紙にうるわしい筆書というものさえあった)の数々を廊下の壁に張り出したのだが、爆発的な話題を呼んだため、二度とこの種の試みは不可能となった。
この後、寮祭は代々の寮生の着想によって、楽しく盛大に実行されてきたようだが、第一回の主催者として、この歴史を開いたことを誇りとしている。

丸山 昭(1953年卒)

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